◇◇◇
左手首に付けてある玲から貰った腕時計は、もう二十二時を超えていた。
「お、松本さん。今日はお疲れ」
「山崎さんこそ、営業部署の代表お疲れ様でした」
「ハハッ、"若い者はドンドン前に出ろー!"って部長に言われて仕方なく、だよ」
「それでもあんな風に堂々と今季の実績と来年度の目標実績を立てられるなんて流石です」
今日はホテルの一室を貸し切りにして全部署の報告会議の日だった。
お偉い様方が一斉に去って行った後、ここを片付けるのはあたし達の役目。
そんな雑務も終盤、あたしは柚木達と一緒に鞄を持って帰る頃合いを見計らっていた。
「松本さんって入社当初から俺と結構話してるはずなのに、ホントいつまで経っても堅いなぁ」
「そんな、」
未だに辛うじてこの仕事を続けられてはいるけれど、玲はそれすら良く思っていない。
『紗季はこの家に居て好きな事してたらいいんだよ』なんて言われたけれど、そんなのは断固拒否だ。
玲の事を考えない時間がないと気が狂いそうになる。
それにあのマンションにずっと居るなんて、まるで玲が作った鳥籠の中で飼われているようなものだ。
───どこまでも彼の言う通りになると思ったら大間違いだわ。
「‥‥あ、じゃあ俺ついでにソレ仕舞ってきてあげるよ」
「あ、すみません。ありがとうございます!」
気まずい空気を変えようワザと明るく指さされた一本のマイクを渡した。
───その時。
キ────ンッ。
「わぉ、」
「な、なにこの音」
まるでマイクとマイクが近づいた時に鳴るあの耳を劈くような音。
突然の大きな音に思わず眉を顰めた。
「どこから鳴ったコレ?」
「さ、さぁ?」
山崎さんは「気味悪いな」と言いながら手渡したマイクを持って辺りを探った。
キ────────ンッ。
「え、これ松本さんの鞄から反応してる」
「え、嘘?!」
会議の資料に、筆記用具、小さな水筒に、ハンカチ──‥‥。
慌てて鞄の中を探ってみても、マイクに反応するような物は一つもない。
けれど山崎さんがあたしの鞄にソレを近づける度に、どうしてか慣れない音を出し続けた。
「なんでしょう、コレ」
「‥‥‥あの、さ。鞄の中ってよりこのクマのぬいぐるみに近付けると鳴るみたいだ」
「‥‥クマ?」
「ほら」
「ほ、本当ですね」
「ちょっと見てみても良い?」
「は、はい。もちろんです」
マイクのスイッチを切って、鞄に付けていたクマのぬいぐるみを取った彼は不審そうに眺めた。
そのぬいぐるみって、確か────。
「ねぇ、」
「はい?」
「松本さん、さ。これ誰から貰った?」
「え、」
「この中、小型のGPSが入ってる」
「そんな‥‥‥ッ!」
聞き慣れないその単語に思わず口元を抑えながら息を呑んだ。
小型の、GPS?!
「……、」
あぁ、分かった。
これで全てが繋がった。
あたしが今までどこへ逃げても隠れても必ず見つけ出されていた理由が。
これで全部納得した。
どんなに遠くへ行っても、必ず玲があたしの行く先々で待ち構えていた理由が。
「ほら、これ」っと言って手渡されたソレを見ながらあたしは絶句した。
だって、このぬいぐるみ────。
玲と付き合い始めて、彼が初めてあたしにプレゼントしてくれたものだったから。
何年、こうやってあたしを見張っていたわけ?
あたしと出会う前から、一体どんな計画を練っていたと言うの?
「‥‥‥ッ、」
もういや。我慢できない。
どこまでも玲の手中で踊らされるのは懲り懲りよ。
「‥‥松本さん?」
「山崎さん。この後、空いていますか?」
「え?」
「これから、二人きりで飲みに行きませんか?」
「‥‥え、ちょっとどうし、」
「その後は────‥‥」
"大人の付き合いをしましょう"
彼の耳元でそっと囁いて、誰にも気付かれないようにスーツの裾を引っ張って催促した。
あの忌々しいGPSさえ無ければ玲があたしを追ってくる事はない。
あたしを探す為の手段はもう、この会場に置いてある植木の鉢の中に捨てたのだから。
「‥‥いいの?」
「言わせないで」
「俺の車こっちに置いてる」
山崎さんの事は好きでも嫌いでもないけれど、玲のあの窒息してしまう程の愛から抜け出せると思うともうなんでも良かった。
会場の隅に居る同期に見つからないように、こっそりと関係者専用の出口をくぐった。
────玲、さようなら。
あたしはようやく、自由に生きられる。
山崎さんは運転中、無言で前だけを見続けた。
助手席に乗っているあたしも、何も話す気分にはなれない。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
幻滅、されているのかもしれない。
こんな軽い女だったのか、だなんて。
けれど彼が会社の人間にこの事を漏らす事はまずない。だってこれは同罪。
二人のこの関係が知られてお互いに損をする事はあっても得をする事は何もないのだから。
「‥‥松本さんを、そんな人だったなんて思ってないよ」
「‥‥‥へ?」
「何か、あったんだろうなーって」
「‥‥‥‥」
「今日だけの関係でも別にいい。嫌な事忘れなよ」
「‥‥‥ッ、」
「俺、松本さんの事好きだけどGPSを持たせたりはしないよ」
「やだ、からかってます?」
彼は本当に良い性格をしている。
いつも会社で場の雰囲気を盛り上げているのは山崎さんだ。
けれどそれ以上、今はあたしの前で"良い人"にならないで。
一緒に悪い大人で居たい。
あたしの私情に巻き込んでしまって、心が痛い。
三十分程走り続けた車は人通りも幾分か少ない、町から少し離れた場所に建っているラブホに駐車した。
玲以外の車の助手席に乗ったのは本当に久しぶりだった。
ゆっくりと、ドアを開けて降りた。
「ここはキミが帰ってくる場所じゃ、ないでしょ?紗季」
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!