まさに車から降りてドアを閉めた途端だった。
聞き慣れた声を耳にしたのは。
「‥‥‥嘘、なんで」
「その顔、いいよ。僕に怯えたその表情、堪んない」
「い、いや!来ないで、玲!」
「ねぇ、教えて?ここに、何しに来たの?」
「な、なんだって良いでしょ―――ッ」
「‥‥おい、」
ゆっくりとあたしとの距離を寄せてくる玲を止めたのは、山崎さんだった。
二人の間に入ってあたしを庇うように立つ彼は、玲を睨み上げながら言う。
「あんたか、松本さんにGPS持たせたりしてる彼氏っつーのは」
「‥‥彼氏、と言うより婚約者と言った方が正しいね」
「婚約者なら尚更、だ。もっと松本さんの事を信用してやれよ!」
「‥‥キミは、何?」
「あ?俺は松本さんと同じ会社の人間だ。言っとくけどお前なんか全然松本さんにお似合いじゃねぇよ」
「ううん、違う違う。キミの素性は知っているよ。紗季より一年先輩の営業部署所属、最近は専務の後任として張り切ってるみたいだね。でも、僕が聞いてるのはそんなつまらない事じゃない」
「‥‥あ?」
必死になってあたしを守ろうとしてくれている山崎さんとはまるで対象に、玲は涼し気な笑みさえ浮かべながら彼を見下ろしていた。
大体GPSはもうあの会場に置いてきたはずなのに、どうしてここの居場所が分かったの?
どうして、あたしをそこまで追い詰めるの。
「僕の紗季に、こんな場所で何をしようとしてたのかって、聞いたんだよ」
「‥‥‥ッ、」
「やめて!あたしが誘ったの!」
「‥‥へぇ、紗季は本当にこんなのと夜を明かすつもりだったの?」
「そ、そうよ」
「悪い、子になっちゃったね」
「だから山崎さんは悪くないの」
「いつからこんな男を庇うようになっちゃったの?紗季」
玲は山崎さんを眼中にも入れずに、あたしを引き寄せて冷たい手でそっと輪郭をなぞった。
今、何を考えているのか全く読み取れない彼の行為一つ一つが怖い。
「お前が松本さんをそうやって怖がらせてんだろ!だから俺が救ってやろうと思ったんだよ!」
「ねぇ紗季。紗季の身体、アレと同じ匂いがして僕もう耐えられそうにない」
「おい!聞いてんのか!」
「今、綺麗にしてあげるから―――‥‥」
「え‥‥んっ!」
横で玲に言葉をぶつける山崎さんを全部無視して、彼は強引にあたしにキスをした。
グッと顎を持ち上げられて、わざと艶美なリップ音を鳴らし続けながらするその行為は山崎さんに見せつけているかの様。
恥ずかしいからやめてほしいと玲の肩を押し退けようとしても、避けようとすればするほど腰に手を回されて強く絡みつく一方。
「‥‥ッ、れ、玲ッ、い‥‥‥やッ!」
「ほら、いつもの様におねだりしなくちゃ」
「やめって‥‥‥、見てるッ‥‥でしょ―――ンッ!」
「ふふ。紗季が可愛いから、やめてあげない」
掠れた声でそう言う彼は、吐息交じりに渇いた笑いを零した。
―――楽しがってる。
「ちょっ、玲―――‥‥‥ッ、」
「ねぇ、そこの発情期さん?」
これ以上こんな羞恥は耐えられないと、本気で玲を突き放そうとした瞬間に見せつけのキスは終わり、その代わり二人の繋がりが確かだったと言わんばかりに透明な糸をゆっくりと引き延ばした。
肩で息をしながら呼吸を整えている一方で、玲はあたしを抱いたままどうしていいのか分からない表情をした山崎さんに問いかけ始めた。
「紗季と何をしようとしてたのかは兎も角、キミもこのホテルに一緒にどう?絶対、触れさせはしないけど‥‥‥、声だけなら聞かせてあげるよ」
「‥‥‥は?」
「僕の紗季が喘ぐ声、キミとも共有させてあげてもいいよって言ってるんだよ」
「‥‥あんた、イカれてる」
「でも実際にキミは紗季と一夜限りの関係を築こうとしてたんでしょ?それって後先考えない馬鹿のする事じゃない?それから余りに‥‥‥無責任だよね」
「‥‥‥ッ、」
「紗季のこの瞳や、唇、胸、くびれ‥‥‥」
「い、いや、触んないで‥‥!」
「確かに抱きたくなっちゃう気持ちは分かるけど、これさ?僕好みに仕上げた傑作だから、そんな盛りのついた雄犬如きが簡単に触っていいもんじゃないんだよ」
「‥‥‥‥」
「分かったら、」
「‥‥‥ッつ!」
「――――ハウス」
なんて事、言うの。
「くそっ!」っと捨て台詞を吐いて、乱暴に車の扉を開けて帰っていく山崎さんを高らかに笑う玲。
「玲、」
「あんなのに襲われなくて良かったよ、紗季ちゃん。」
「あんなのって、あたしの会社の先輩よ?これからどう接していけばいいのよ!」
「あぁ、心配しないで?彼は来週からもう、来ないよ」
「‥‥‥は?」
「それより、紗季のお望み通りこのホテルに入ってもいいんだけど、見るからにお粗末だし僕は家に帰ってからにしたいんだけど、どう?」
「‥‥‥もう、いい加減にして」
どうして?なんで?って考える事も、もう沢山。
このまま一生、あたしの人生を玲に支配されるくらいなら―――‥‥。
「玲より、山崎さんの方がずっと良い」
「‥‥‥へぇ、どこがいいの?」
車に移動していた彼の足はピタリと止まった。
仕事帰りなのか、相変わらずピシッとしたスーツを着ている玲は普段の玲より何倍も迫力が強い。
大きな瞳を伏目がちに寄越しながら振り返る彼は、駐車場から覗く月の光に照らされていた。
妖気を纏ったかの様な玲が、今はただただ恐怖の象徴でしかない。
「や、山崎さんは落ち込んでるあたしを笑わせようとしてくれたの」
「‥‥‥」
「嫌な事を、忘れさせてあげるって言ってくれた」
「‥‥‥‥」
「GPSを見つけてくれたのも、あたしを救ってくれるって言ったのも山崎さんなの!」
玲はあたしを縛り付けておきたいだけでしょう?
確かにあたしだって最初は玲の事を利用していた。親の束縛から逃れる為に、玲を使って逃げたけれど。
でも、だからって―――ッ!
「そう言葉で言ったら、紗季の心がもらえるの?」
「‥‥え?」
「あの発情期の雄犬くんは、紗季を助けるって言ったんでしょ?救ってあげるとも。」
「そ、そうよ」
「だけど、実際はどう?」
「‥‥‥へ?」
「今ここに、彼は居ない」
「そ、それは玲が!」
トンッ、トンッと靴音を一定のリズムで奏でながら近寄る彼は「ほら?」っと言ってあたしを後ろから抱きしめて辺りを見せた。
左耳に掛かる玲の吐息に、全身が震えた。
「本当に紗季のことを助けたいって思う人が、他人に何かを言われたくらいで踵を返す?」
「‥‥‥、」
「例えば紗季のこの身体が、何かの事故で動かなくなったとしたら。誰だか判別つかないくらい顔の形が変わったとしたら?それでもさっきの彼は、紗季を車に連れ込んだ?助けてあげる、なんて本当に言ってくれのかな?」
「‥‥‥何を、言ってるの」
「アッハハ!僕は、そんな紗季ちゃんでもずっと愛し続けるよ?」
「離れ、て」
「僕が毎日キミのお世話をするんだよ。朝起きて夜寝付くまで、ずっと僕が紗季の隣に居るの」
「やめてッ、」
「僕なしでは生きていけない身体って、最高にそそらない?」
玲が言葉を発する度に抱きしめる力は増していく。それに比例するかの様に、あたしは彼が紡ぐ言葉を頭の中に入れていく度に抵抗する力は衰えていった。
こんなの全部あたしを捕まえておきたいが為の言い訳なんだと言い聞かせようとしても、玲の執念とも捉えられる愛を少しだけ理解し始めるあたしがいた。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!