恐る恐る口を開くと、瑞月は再度目を伏せて黒猫の頭を撫で始めた。
にゃお、と黒猫が非難するように晴人に向かって鳴いた。不服そうなその声に、
瑞月が愉しそうにくすりと笑った。
黒猫も嘲笑うように晴人にふいと背を向けて毛づくろいをし始めた。
なんだ、なんで笑われてるんだ俺は。
疑問でいっぱいの頭を抱えて黒猫を凝視すると、ほんの少しの違和感を感じる。
ごく普通の、黒猫、……じゃない?
丁寧にブラッシングでもされているのか、綺麗な黒色の毛並み。ビー玉みたいな金色の目。上品に伸びた右左にゆらゆら揺れる尻尾の先は二つに分かれ──
二又に分かれた尻尾。
愕然とした顔で黒猫もとい黒猫もどきを凝視する晴人の視線を疎ましげに見やり、瑞月の背中へ隠れてしまう。
指が小さく震えてしまうのにも構わず瑞月の後ろの生物を指差す。
そんな晴人を気にせず瑞月は平然と頷いた。
【猫又】
「妖怪」のひとつで仙狸が由来ともされる、年月を重ねた猫が化けたもの。
外見はおおよそ猫そのものだが、尻尾が二股に分かれているのが特徴。また、特筆して大きな体を持っていたり、人間に化ける能力を持つものも居る。
ぽかんと口を開けて立ち尽くす晴人を嘲笑うように、黒猫改め猫又が瑞月の後ろから顔を出した。
幼い男子のような高い澄んだ声が、猫又から発せられたことにビビる晴人を、目を細めて見やり、
小馬鹿にするような言い方で吐き捨てる猫又に、瑞月が眉を顰めて諌めた。
瑞月の言葉にはすんなりと頷いた猫又は晴人に一瞥だけ残し、マイペースに毛づくろいを始めている。
瑞月はちらりとこちらを見て、
漫画みたいな状況が起こりやすいとはいえ、こんな異次元な状況に置かれるのは初めてだ。さすがの晴人も驚きまくりである。
瑞月は急に晴人に近寄って、正面に立ったと思ったら、何故か晴人の額にデコピンをした。
意外と強烈な衝撃に思わず額を抑えて呻く。
首を傾げて一つ瞬きをする。
目を見開けば、景色は一変していた。
一つ目小僧、傘化け、蟹坊主、化け草履、ろくろ首、その他諸々なんか透けてる人達──数多の妖が晴人を囲んでいた。
【一つ目小僧】
額の真ん中に目が一つだけある坊主頭の子供の姿をしており、これといって危害を加えるようなことはなく、突然現れて驚かすという妖怪の中でも比較的無害な部類に含まれる。
【轆轤首】
姿かたちは人間と殆ど変わらないが、首が長く伸びると言う能力を持っている。
一説では「人間の身体の一部が幽体離脱を起こした状態」と言われている。
晴人の反応に残念がる妖怪、幽霊達に思わずツッコミを入れてしまう晴人であった。
【傘化け】
捨てられた唐傘が恨みの力で妖怪へと変貌したもの。
巨大な一つ目と下駄、長い舌が特徴。一つ目と一本足は一本だたらと同じ。付喪神の中でも特にポピュラーな存在であるが、具体的に何をする妖怪なのかは分かっていない。
傘化けが身体を傾けて問うてくる。
身体を傾けるというのは、おそらく人間達の首を傾げる仕草のようなものなのだろう。
もごもごと言う晴人に瑞月は目を細める。
アホ面で聞き返す晴人に、瑞月は楽しそうに微かに口の端を上げてみせた。
数分後、晴人はまたもや立ち尽くしていた。
巨大な和風邸宅にビビり散らかす晴人を見てボロクソに言い合う怪異に言い返す。
見慣れているから分からないのかもしれないけど、瑞月と怪異の住む家は、堂々たる有様で、もはや威圧感を感じるほど大きい。豪邸じゃねーか。
直接的な物言いをする一つ目小僧を化け草履が諌める。
【化け草履】
室町時代からこの妖怪は存在しており、「百鬼夜行絵巻」にその姿が書かれている。
その姿は、藁の手足を持つ草履の妖怪が、藁の甲冑を身にまとい、トカゲ状の馬にまたがったというものである。
騒がしい怪異と晴人を置いてさっさと玄関の扉を開けて、瑞月が中にふらっとした足取りで入る。
…前から思っていたけれど、何だか瑞月の振る舞いはどこか頼りなげに感じることがある。危なっかしいというか、何というか。
随分賑やかな怪異一行と共に玄関の扉をくぐると、神社の階段をのぼっていた時から感じていた、何か濃密な気配がぐっと強くなった。
………ここにも怪異がいるのか、と、ここまでくると驚きもせずある意味呆れてしまう。
どうやら、瑞月の同居人の怪異は、晴人の横のやけに賑やかな連中だけではないらしい。
何故かろくろ首に励まされた。
ろくろ首に励まされる経験なんて、この日本で誰がしたことがあるだろうか。
内装も綺麗は綺麗なのだが、若干古びていて昔ながらの日本建築という印象を持った。
木造住宅で、何だか懐かしい雰囲気がする。そう、遠方の祖母の家のような。そんなふうに想起させる要因は、匂い、だろうか。祖母の家で薫っていた線香の匂いが、ほんのりと鼻腔をくすぐる。
先を歩いていた瑞月が、廊下の先の襖から顔を出し、ちょいちょいと手招きする。
慌てて靴を脱ぎ、土間に揃えて置いてから、速歩きで瑞月の元へ向かう。
そうだ、これまでの出来事が衝撃的過ぎて忘れてかけていたけれど、そもそもここに来たのは、視線の問題を解決するためだ。
…と数歩踏み出したところで、後ろのろくろ首を始めとする怪異たちから声が掛かった。
化け草履のあっけらかんとした物言いに、確かにそうだな、と頷く。
何でなんだろう、と怪異たちと一緒に首をひねって──ろくろ首は物理的にも首をひねって──考えていると、一つ目小僧が無邪気に手を挙げた。
一つ目小僧の言葉に晴人はまた首を傾げる。
特別とはどういう意味だろう。転入生、というだけの理由ではないだろうけれど…。
聞き返そうとしたところで、猫又が、襖から顔を出して怒鳴った。黒色の毛が逆立っていて、なかなかにご立腹な様子。
瑞月が注意した途端に、微妙に棘のある敬語もどきになるのに苦笑して歩みを再開する。
とにかく、今は視線の問題が最優先だ。
瑞月の零した、小さな呟きに気付くものは、いないまま。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。