仕事をかなり終わらせて、少しだけ息抜きをしていた時。
トントンとノックの音が響いた。
なんでこんな忙しいのかね、今日は……
扉をあけると、そこには午前中に訪ねてきたあの若者が立っていた。
若者は申し訳そうに口を開いた。
私の問いかけに若者はコクコクと首を縦に振った。
『お入り』と手招きして若者を家にあげた。
私はそう言い残して、ある箱の中を漁った。
この箱は、人間の中から魔女の世話役として選ばれた者、この若者のような者たちの分の葡萄が入った箱だ。
その中から、ひとつだけ緑色の粒を取り出して見せた。
そう言ってその粒を机の上に置いた。
だめだ。若者の中で人殺しという言葉だけが独り歩きしている。
なんでそんな真っ青になってるんだか分からないが、こんな手伝いをよく寄越したもんだよ…
もっと軽いヤツを連れてくればよかったのに。
若者はせっせと働いている。
案外使い物になるじゃないか。
その光景をしばらく眺めていると、若者は作業を終えていた。
机の上にはシワシワした実だけが綺麗に並べられている。
褒めてやろうと思ったが、まだ若者の名前を聞いていないことに気がついた。
若者も名前を教えていないことに気がついたらしく、はっと声を漏らして教えてくれる。
机の上の実たちと箱の中をゆっくり見つめ、
『うん、よく見分けられてる』
と心の中でもう1度あなたを褒めた。
その時、あなたから質問が飛んできた。
まさか誰かから自分の本名を尋ねられるとは。
最後に名前を口に出したのはいつか分からないほど昔だ。
久しぶりに自分の名前を人に明かす、と思うととてもドキドキしてしまう。
あなたは疑っているようで、目をきゅっと細めてこちらを見た。
あなたはまだ疑っている。
私がグレープなのが謎なのか?
それとも赤の魔女が、あの冷酷で有名な赤の魔女が、「チェリー」なんて可愛い名前なのが謎なのか。
私はずっと後者が謎である。
よく出来た若者だ。
いや、最近の若者はみんなよく出来ているのかもしれない。
にしても、相手の気持ちを汲むのがうまい。
その心遣いが、いつからかバキバキだった私の心を少し温かくしてくれる。
あなたは大きく頷き、少しだけ考えたあと笑顔で私の目を覗き込んできた。
はい!と威勢のいい返事と共に、扉を開けて庭へ出ていった。
どうやら庭の世話もきちんとやってくれるらしい。
あなたと話したこの何分かで勝手に母親のような気持ちになってしまった自分が少し恥ずかしい。
窓から庭をちらっと見ると、あなたがカラスたちにつつかれているのが見えた。
まだカラスたちには懐かれないか…
見るからに本人はパニックになっているが、見ている分にはとても微笑ましく見える。
本当に、本人は笑ってもいないしむしろ泣きそうな顔をしている。だが、申し訳ない。本当に微笑ましい。
なんだかとても心地よい気分になり、目を細めてしばらくの間あなたを眺めていた。
これから始まるあなたとの生活が少し楽しみだ。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!