第10話

こころぐちゃぐちゃ
944
2021/08/30 04:00
『馬鹿なことはやめたほうがいい』
 そう言った池宮さんの言葉が、1週間近く経った今も頭から離れずにいる。
(なまえ)
あなた
(たしかに馬鹿なことだとは思う。
 けど、それには理由があって
 先輩も苦しんでて……)
(なまえ)
あなた
(でも……)
 胸の内にくすぶる黒いもやが、日に日に質量を増して雨空のように広がってゆく。
 いつもなら出来るはずのことも手がつかなくなって、失敗ばかりだ。
 さっきだって返ってきたばかりの本に貸出スタンプを押してしまったし、慌てた拍子に机の上の文房具をひっくり返してしまった。
(なまえ)
あなた
(こんなんじゃここに居たって
 邪魔になるだけなのに……)
 ヘマをしてばかりの私を助けてくれる先輩とも、上手く話せない。
 顔を見るとあの時の……池宮さんと先輩が楽しそうに話す姿を思い出してしまうから。
『先輩のこと、ちゃんと知らないあなたにそんなこと言われる筋合いありませんからっ!』
 そう池宮さんに放ったはずの自分の言葉が、深く胸に突き刺さっている。
(なまえ)
あなた
(先輩のこと、なんにも知らないのは
 私の方だった)
 心地よかったはずの図書室でのひと時が、今は水の中にいるみたいに苦しくて仕方がない。
(なまえ)
あなた
(ちゃんとお仕事、しなきゃ……)
(なまえ)
あなた
あっ
 ガシャン! と大きな音を立ててパソコンのマウスが机から落ちる。
(なまえ)
あなた
……よかった壊れてない
時雨
時雨
おっちょこちょいな
あなたちゃんって珍しい
 ふいに先輩が呟く。
(なまえ)
あなた
……そうですか?
時雨
時雨
うん。
心配で目が離せないくらいには
(なまえ)
あなた
……あはは、
変なこと言わないでくださいよ
時雨
時雨
うーん……
やっぱりまだ元気ないね
(なまえ)
あなた
え? ……そんなことないですよ!
いつも通りすっごい元気です!
ほら!
 ばっとわざとらしく手を上げて〝元気!〟のアピールをしてみせる。
時雨
時雨
それ、かなり
いつも通りじゃないけど……
(なまえ)
あなた
何言ってるんですか! この通り
元気100倍あなたちゃんマン
なので、本戻して来ますね
時雨
時雨
待って
(なまえ)
あなた
 にっ、と無理矢理笑ったのを見透かされてしまったらしい。
 急に右手首を掴まれて、思わず体がびくっと跳ねてしまった。
時雨
時雨
……、……
 先輩は何か言いたそうに視線をさまよわせた後、何も言わずにただ「ごめん」とだけ呟いて手を離した。
(なまえ)
あなた
 それになんだか泣いてしまいそうになって、なんとか本棚の陰に隠れた。
 するりと遠くなった先輩のぬくもりがまだかすかに残る手首を、左手でぎゅっと握る。
(なまえ)
あなた
(先輩と一緒にいるのが、
 ……つらい)
 好きなのに。この気持ちは変わらないはずなのに。
 当の私は……あれから先輩との関係が悪くなるのが怖くて逃げてばかり。
(なまえ)
あなた
(こんな私じゃダメだ)
(なまえ)
あなた
(先輩にお似合いなのは、
 自信にあふれてて堂々としてる
 池宮さんみたいな人……だよね)
(なまえ)
あなた
うぅ……っ…………
 奥歯をぐっと噛みしめて、嗚咽がもれそうな口を手でおさえる。
 自分に自信がなくて、素直になれないまま先輩に甘えてる私が一番、卑怯でみじめで最悪。
(なまえ)
あなた
(こんな私なんかが
 先輩のそばに居ていいわけない)
 ほんとは全部わかってる。
 ……でも、離れたくない。
(なまえ)
あなた
もうやだぁ……
 全く反対の感情が暴れてもうぐちゃぐちゃだ。
 誰もいない図書室のすみっこ。
 ずるずる座り込んで、小さくうずくまる。
時雨
時雨
あなたちゃん
 頭上から私の名前を呼ぶ先輩の優しい声がする。
(なまえ)
あなた
……今は、
ほっといてください……
時雨
時雨
泣かないで
 服の擦れる音がして、先輩の声が近くなる。
 目線を合わせるようにしゃがみ込んだ先輩は、悲しそうな顔。
(なまえ)
あなた
(なんで先輩が
 そんな顔してるの……?)
(なまえ)
あなた
泣いて、ないです
 こんなうそ、バレバレなのに。ほらまた素直じゃない。
時雨
時雨
……
時雨
時雨
恋人ごっこ、しよう
(なまえ)
あなた
いまはそんな気分じゃ……
時雨
時雨
今日は
〝落ち込んでる彼女を慰める方法〟
ねえ、触れて、いい?
(なまえ)
あなた
……
 無言を肯定と受け取った先輩の指が頬に触れて、目じりに溜まった雫を拭われる。
 割れ物を扱うように繊細なやさしさに、のみ込んだはずの涙がぽろぽろこぼれだす。
(なまえ)
あなた
あ、はは……
なんでぇ? ぐすっ……
時雨
時雨
よしよし
(なまえ)
あなた
ちが、んです……
みないで、くださ……
時雨
時雨
あーもう、しょうがないなぁ
 ぎゅっと抱き寄せられて、ぬくもりに包まれる。
 心臓が割れてしまいそうなくらいにドキドキと脈打つ。
 聞こえる鼓動の音は私のそれと同じくらい速くて、それがとってもあたたかくて。
 どうにか止めようとしていた涙が堰を切ったようにあふれだす。
 辛くて苦しくて恥ずかしくて、今すぐにでも全部やめてしまいたいのに、自分じゃどうしようもないくらい、まだまだ私は先輩のことが好きで。
 ——大好きで。
(なまえ)
あなた
(やっぱダメなんだ。
 先輩から離れるなんてできない)
 だから……。
(なまえ)
あなた
(だから、これ以上つらくなる前に
 私から終わりにしよう)
 どくどく耳元で聞こえる、この愛しい心音が、憎らしく思えてしまう前に。