第8話

「好きって言って」
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2021/08/16 04:00
(なまえ)
あなた
……
 カウンターで文庫本を開くけど、文字を眺めるだけで内容が頭に入ってこない。
 先輩のファンの子たちから呼び出しを受けたあの日からはや数日。
 あの時の先輩のすごみが効いたのか、目立ったいやがらせのようなものはない。
(なまえ)
あなた
(それはまあいいことでは
 あるんだけど……)
 先輩と続けている恋人研究も、依然として「恋心はまだよくわからない」ままで、大した進展はない。
 恋人ごっこを通して私を好きになってもらえれば、なんて淡い期待も淡すぎるままだ。
(なまえ)
あなた
はぁ……
 元からわかってたことだけど、ぜんぜん恋愛対象として見られている気がしない。
 上手くいかないことばかりで、思わずため息がこぼれた。
時雨
時雨
ん、何かあった? また怖い目に
遭ったりとか、した……?
(なまえ)
あなた
なんにもされてないですよ
時雨
時雨
ほんとに?
(なまえ)
あなた
大丈夫ですってば。
……もうこれ三回目ですよ?
時雨
時雨
心配なんだ。
あなたちゃんのこと
(なまえ)
あなた
…………なんで
 溜息の原因もささいなことで心がかき乱されるのも全部……先輩のせいなのに。
時雨
時雨
……じゃあ、
今日は何をしようか
 ぱらぱらと恋人手帳をめくる先輩がぽつりとこぼす。
 横から覗き見たページの項目には、「試し済み」を示すチェックマークがいくつか記されている。
 放課後図書室で顔を合わせる日には必ず最低一個はやっているのに、いまだに好きを理解してもらうことも、先輩に振り向いてもらえる気配もない。
 また少し心が重くなって、後ろ向きな気持ちが這い上がってくる。
 悪い癖だってわかってるけど、どうにもならない。
 くまのいるポケットを指でそっとなぞった。
時雨
時雨
ねえあなたちゃん
 ぼーっと机の上を見るでもなく眺めていると、ふいに名前を呼ばれて顔を上げた。
 いつの間に距離を縮めたのか、目の前で先輩がじっとこちらを見つめている。
(なまえ)
あなた
ぁ……
 思わず、のどの隙間から小さな声がもれ出て、胸の鼓動が大きくなってゆく。
 じっとり濡れた瞳と視線が絡み合って、目が離せない。
 その、少し真剣さを帯びた瞳の色には覚えがあるような、ないような。
 体が熱を持って、何も考えられない。
時雨
時雨
……好きだよ
 そっと耳元でささやかれた言葉はまるでガムシロップのように甘くとろけそうで。
(なまえ)
あなた
あ、あぁぁあの、先輩……!?
 思わず耳を押さえて後ずさる私とは裏腹に、先輩は変わらぬ微笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
 その手元のあるノートには「愛を囁き合う」の文字が。
(なまえ)
あなた
きゅっ……、なっ……もう!!
そういうのやる時は、先に
言っといてください……!
 そうじゃないってわかってるけど、体があつくて、心臓がどきどきして、頭が痛くなりそうなのに。
時雨
時雨
ねえ。あなたちゃんも
『俺のこと好き』って言って
(なまえ)
あなた
(なんで今日はこんなに
 ぐいぐい来るの……!?)
 どうやら引くつもりはないらしい。
(なまえ)
あなた
う、ぁ……
時雨
時雨
ほら
 思考回路は今にもショートしそうなのに、先輩は〝あの言葉〟を言わない限り解放してくれそうにない。
(なまえ)
あなた
ぁ……
時雨
時雨
うん?
(なまえ)
あなた
……すき、です
 恥ずかしさにぎゅっと目をつむる。
時雨
時雨
っ——
 息をのむ声が聞こえたっきり、やたら静かなのがいっそう羞恥をあおる。
時雨
時雨
あー……これは、ちょっと
 おそるおそるまぶたを開けると、目が合う前に先輩はすっと離れてしまった。
 手の甲を口元に当てて顔を背けているけれど、赤く染まっている耳が見えて私まで体の温度が上がってしまう。
 いつも余裕そうな先輩がこんなに照れるなんて、調子が狂う。
 ほの甘い空気に当てられて、
(なまえ)
あなた
(おかしくなっちゃいそうだ……)
 その後のことはよく覚えていない。
 ただ放課後終了を告げるチャイムにせかされて、図書委員のお仕事を片付けた。


時雨
時雨
俺ちょっと先生に用があるから
先に帰ってていいよ
(なまえ)
あなた
わかりました
 学校を出てひとり、最寄駅を目指して歩く。
(なまえ)
あなた
(今日のあれ、は……)
 赤く染まった先輩の顔を思い出す。
(なまえ)
あなた
先輩もあんな顔……するんだ……
 思い出して、また顔から火が出そうになる。
 ——でも、この調子じゃ先輩に気づいてもらえるまであとどれくらいかかる……?
 この関係が始まってしばらく経つけど、変化の速度はカメの歩みもいいところ。
 今のままじゃ、先輩に恋心をわかってもらって好きになってもらおうなんて考えていたのが馬鹿らしく思えてくる。
 それに、いつか「やっぱりわからなかった」と言ってフラれてしまうかもしれない。
(なまえ)
あなた
(それは、いやだ……)
 一人になるとどうしても悪い方悪い方へ考えてしまう。
 下を向きそうになるのをぐっとこらえて、スマホをぎゅっと握った。
(なまえ)
あなた
あー、もうだめだめ!
……え?
 顔を上げたところで、傾く夕日を遮るように視界へさっと影がさす。
 人が立っているのだと気づいたと同時に、目の前の人が私に向かって口を開いた。
小夏
小夏
あなたが『あなたちゃん』?
 そう尋ねてきたのは、知らない、息をのむほどの美人さんだった。