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第12話

恋人、はじめました。
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2021/09/13 04:00
(なまえ)
あなた
ここ、は……?
 手を取られ、連れてこられたのは先輩の好きなシリーズ絵本の展覧会。
(なまえ)
あなた
(なんでここに……?)
 前を歩く先輩の表情が見えない。
(なまえ)
あなた
(いつもなら綺麗な黒い瞳と
 目が合う、のに……)
 ……なんて。
 自分勝手だってわかってるけど、そんな些細なことに小さく胸が痛む。
(なまえ)
あなた
(……これが最後のデート
 って、ことなのかな)
 入口で出迎えてくれたうさちゃんに心の中で問いかけたところで答えが返ってくるわけもないのだけど。


 会場を見て回りながらも、先輩との間に会話らしい会話はない。
 だけど、固く、それでいてやさしく繋がれたままの手からはじんわり、先輩のぬくもりが伝わってきて……。
 ——それがなおさら、心をぐちゃぐちゃにする。
(なまえ)
あなた
(どうすればいいのか、
 もうわかんない……)


 ***

 複雑な思いを抱えたまま、それでも時間は過ぎてゆく。
 展覧会を見終えても重苦しい空気は変わらなくて、気まずさを感じながら会場を後にした。
(なまえ)
あなた
(このあとどうするんだろう……)
 声を出すのもためらうような沈黙が苦しい。
時雨
時雨
……こまったなぁ
(なまえ)
あなた
え?
 ふいにつぶやかれた言葉が小さくて聞き逃してしまった。
 顔を上げて隣を覗き見れば、意を決したような表情の先輩がこちらをまっすぐに見つめている。
時雨
時雨
あなたちゃん
 少しかすれた声に名前を呼ばれて、どきっと心臓が跳ねる。
時雨
時雨
俺、君のことがすきだよ
(なまえ)
あなた
っ……!
 息をのんだ。
 世界から音が消えて、ほかの雑音が何も入ってこない。
 先輩しか、見えない……。
(なまえ)
あなた
やめてくださいよ、
そんな冗談……
 もう期待しないって、そう決めたのに。
 拒絶する声が震えてしまう。
時雨
時雨
……冗談じゃないよ。
もちろん、ごっこでもない
 眉を下げて困ったように微笑む先輩に、きゅっと胸が締め付けられる。
時雨
時雨
君が……あなたちゃんが、
一人の女の子として、好き
 たしかめるように繋いだ手をぎゅっと固く握られる。
 黒曜石によく似た瞳と目を合わせたらもう逸らすことなんかできなくて。頭がくらくらしてきた。
時雨
時雨
恋人ごっこを始めてから、
あなたちゃんと過ごす時間が増えて
あなたちゃんのことたくさん知って
もっと一緒に居たくて
時雨
時雨
……いつの間にか
君のことばかり考えてた
 するり、指が絡まって、恋人つなぎになる。
 ドキドキはやる胸が痛くて、このまま死んじゃいそう。
時雨
時雨
……今までこんな感情、
知らなかったんだ
時雨
時雨
だから、
それがなんなのか知るのが怖くて。
知ってしまったら、
今までと同じようには
いられなくなりそうで
時雨
時雨
……わからないフリ、してた
(なまえ)
あなた
っ……
時雨
時雨
〝恋人ごっこ〟なんてワガママにも
付き合ってくれるあなたちゃんに
ずっと甘えてたんだ
 先輩がぐっと眉を寄せる。
時雨
時雨
だけど、さっき君に
終わりにしたいって言われて、
すごく後悔した
時雨
時雨
『どうして素直に
ならなかったんだろう。
きっとこれが〝好き〟って
気持ちなのに』って
(なまえ)
あなた
せんぱい、それ……
時雨
時雨
でも今更そんなこと言う資格、
俺にはないでしょ?
(なまえ)
あなた
……
時雨
時雨
でもこのまま素直に君と
別れることもできなくて……。
最後にするって言って連れ出した
時雨
時雨
君と少しでも長くいられるなら
どこでもよかった。
けど、やっぱりダメだったよ
 へらっと困ったように笑うその顔に、いっそう胸が苦しくなる。
時雨
時雨
ここに来て、
もっと君といたいって欲が出た。
このまま君を離したくない
時雨
時雨
もう遅いかもしれないけど、
最後に俺の本当の気持ち、
聞いてくれる……?
(なまえ)
あなた
そんな言い方、ずるい……
 そんな風に言われたら、うなずくしかない。
 目の前がじんわりにじむ。
時雨
時雨
ずるくてごめんね。
でも君を離したくない。
……あなたちゃんのことが
好きだから
 やさしく目元の雫を拭われて、堰を切ったように涙があふれだす。
 泣いてる顔なんてかわいくないから見られたくなかったのに。
(なまえ)
あなた
っ、私も、好き……でしたよ
 何度あきらめようとしても嫌いになれない、だいすきなひと。
時雨
時雨
……過去形?
(なまえ)
あなた
……いまもすき、です
時雨
時雨
うん。
俺と、付き合ってください
(なまえ)
あなた
……はいっ
 ぎゅっと抱き寄せられて、やさしく頭を撫でられる。
 先輩とほんとうの恋人になったなんて、現実味がない。
 でも、耳元で聞こえる速い心音が、夢じゃないことを教えてくれる。
(なまえ)
あなた
(このまま死んでもいい……)
 幸せを噛みしめて、目を閉じ……——
(なまえ)
あなた
あー!
 あることに気づいてしまい、ばっと顔を上げた。
時雨
時雨
わっどうしたの?
(なまえ)
あなた
私、絵本展ちゃんと
見れてません……!!
せっかく連れてきてもらったのに
なんてもったいないことを……
時雨
時雨
っふ、ははは!
急に大きい声出すから
なにかと思ったよ
(なまえ)
あなた
そんなに笑うこと
ないじゃないですか!
時雨
時雨
ごめんごめん。
また今度一緒に来ようよ。ね?
 自然に口にされた〝今度一緒に〟の言葉がこんなにもうれしいなんて、思ってもみなかった。
(なまえ)
あなた
はい……!