『あなた!、あなた!』
『まだ出来てないよ?もっと行けるでしょ?』
『あっ、みてみてあなた!これとっても美味しそう!一緒に食べよ!』
目を閉じて頭の中によみがえるのは、私の隣で煩いくらいに明るく話しかけてくる兄さんの姿。そう、いつも笑顔の。日常生活のなかだけじゃない。授業中だって仕事の時だってそうだ。でも私が見た最後の表情は…怒り。悲しみ。驚き。私が覚えてる顔は笑顔ではなかった。あの笑顔を壊したのは誰か。紛れもない、私自身で。
…私このまま逃げても良いのかな?きっとこのまま戻っても、このすれ違った関係じゃ私たち自身にとって良くはない。分かってるの。怖い怖いって過去に囚われてても意味はないことくらい。前に進むしかないってことも。つい今しがた、五条あなたという存在に胸を張りたいって思ったじゃないか。あの時差しのべてくれた手を振り払ったことを後悔してるんじゃないんすか。それなら…
そうするために…!
だから…!
こんなところで…
ギュッ
肩にポタポタと落ちてくる“何か“。
それは兄さんの…
涙だとすぐに分かった。
伝わった......。私の心臓を締め付けていた鎖が少し緩んだ気がした。それもつかの間に、ふっと柔らかな雰囲気を纏っていた兄さんが、再び真剣な表情に変わった。キッと空気が張りつめ、心臓が煩く脈打ち出す。
あなた自身から『僕と一緒に隣に並び立っていたい』と言ってくれた。それは僕が願うことでもあり、あなたも同じように思ってくれている。その事実だけで十分に嬉しいから。あなたが覚悟を決めて告げてくれた言葉と気持ちに、僕もそれ相応の気持ちで応える。伝えたかった想いを。
何を言われるのかと緊張しながら言葉を待った時間はおそらく数秒だ。でも今の私には数秒どころではなく長く感じられた。緊張で体を固くしていた私の前に、スッと兄さんの手が差し出された。窓から差し込んだ夕日が兄さんの手をあたたかく照らしている。そして、兄さんが口を開いた。
部屋の外や回りの雑音なんかがスッと消えた静かな空間で、その言葉だけがはっきりと聞こえた。改めて言われたその言葉の意味を理解するのに少し時間を要して、しばらく時が止まったかのように動けなかった。そんな私に向けて差し出された兄さんの手を見て、言葉の意味をゆっくりと理解した私は兄さんのその手に、自分の手を重ねた。数日前のあのときとは違って差し出された手は何も怖くなんかなくて、溢れてくる涙と握った手だけが私の気持ちの全てを表していた。
何もなかった暗闇の中の世界から今
一筋の光が差し込んだ。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。