そう云いながら、彼はフラフラと立上って、押入の所へ行き、ガタガタ襖を開けると、中に積んであった一つの行李の底から、ごく小さい、小指の先程の、茶色の瓶を探して来て、聴手の方へ差出すのでした。瓶の中には、底の方に、ホンのぽっちり、何かキラキラと光った粉が這入っているのです。
そして、彼の惚気話は、更らに長々と、止めどもなく続いたことですが、三郎は今、その時の毒薬のことを、計らずも思い出したのです。
彼は、この妙計に、すっかり有頂天になって了いました。よく考えて見れば、その方法は、如何にもドラマティックな丈け、可能性には乏しいものだということが分るのですが、そして又、何もこんな手数のかかることをしないでも、他にいくらも簡便な殺人法があった筈ですが、異常な思いつきに幻惑させられた彼は、何を考える余裕もないのでした。そして、彼の頭には、ただもうこの計画についての都合のいい理窟ばかりが、次から次へと浮んで来るのです。
先ず薬を盗み出す必要がありました。が、それは訳のないことです。遠藤の部屋を訪ねて話し込んでいれば、その内には、便所へ立つとか何とか、彼が席を外すこともあるでしょう。その暇に、見覚えのある行李から、茶色の小瓶を取出しさえすればいいのです。遠藤は、始終その行李の底を検べている訳ではないのですから、二日や三日で気の附くこともありますまい。仮令又気附かれたところで、そんな毒薬を持っていることが已に違法なのですから、表沙汰になる筈もなく、それに、上手にやりさえすれば、誰が盗んだのかも分りはしません。
そんなことをしないでも、天井から忍び込む方が楽ではないでしょうか。いやいや、それは危険です。先にも云う様に、いつ部屋の主が帰って来るか知れませんし、硝子障子の外から見られる心配もあります。第一、遠藤の部屋の天井には、三郎の所の様に、石塊で重しをした、あの抜け道がないのです。どうしてどうして、釘づけになっている天井板をはがして忍び入るなんて危険なことが出来るものですか。
さて、こうして手に入れた粉薬を、水に溶かして、鼻の病気の為に始終開きっぱなしの、遠藤の大きな口へ垂し込めば、それでいいのです。ただ心配なのは、うまく呑み込んで呉れるかどうかという点ですが、ナニ、それも大丈夫です。なぜといって、薬が極く極く少量で、溶き方を濃くして置けば、ほんの数滴で足りるのですから、熟睡している時なら、気もつかない位でしょう。又気がついたにしても恐らく吐き出す暇なんかありますまい。それから、莫児比𣵀が苦い薬だということも、三郎はよく知っていましたが、仮令苦くとも分量が僅かですし、尚お其上に砂糖でも混ぜて置けば、万々失敗する気遣いはありません、誰にしても、まさか天井から毒薬が降って来ようなどとは想像もしないでしょうから、遠藤が、咄嗟の場合、そこへ気のつく筈はないのです。
併し、薬がうまく利くかどうか、遠藤の体質に対して、多すぎるか或は少な過ぎるかして、ただ苦悶する丈けで死に切らないという様なことはあるまいか。これが問題です、成程、そんなことになれば非常に残念ではありますが、でも、三郎の身に危険を及ぼす心配はないのです。というのは、節穴は元々通り蓋をして了いますし、天井裏にも、そこにはまだ埃など溜っていない。ですから、何の痕跡も残りません。指紋は手袋で防いであります。仮令、天井から毒薬を垂らしたことが分っても、誰の仕業だか知れる筈はありません。殊に彼と遠藤とは、昨今の交際で、恨みを含む様な間柄でないことは、周知の事実なのですから、彼に嫌疑のかかる道理がないのです。いや、そうまで考えなくても熟睡中の遠藤に、薬の落ちて来た方角などが、分るものではありません。
これが、三郎の屋根裏で、又部屋へ帰ってから、考え出した虫のいい理窟でした。読者は已に、仮令以上の諸点がうまく行くとしても、その外に、一つの重大な錯誤のあることに気附かれたことと思います。が、彼は愈々実行に着手するまで、不思議にも、少しもそこへ気が附かないのでした。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!