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第1話

第2幕 3つの葬送曲 プロローグ1
313
2019/09/02 06:39
1885年6月20日

イギリスーロンドンー。












ベーカー街でアパートメントを切り盛りしている
ハドソン夫人には悩みがあった。

その悩みというのは、
たかが10室しかない小さなアパートメントの空室が7つもあることではなく、
たかが1人の、「とある住人」のことであった。

















...



(カチ...カチ...カチ...カチ...)
(ザァァァ......)


規則的に音を刻む時計の針の音と雨の音が
木造の部屋に響く。



時刻は午前3時になったところだ。



この時間を深夜と言うべきか、
もはや早朝と言うべきかと、
ハドソン夫人はいつも悩む。



「いつも」というのも、
その時間帯になると、
ハドソン夫人は必ず目を覚ます・・・いや、
覚まさせられるからである。

それは、年寄りによくあるソレではなく、
彼女は「起こされる」のだ。



そして今日も。



(カチ...カチ...カチ...ザァァァ...
であるから....カチ...ハッハッハ...カチ...)




時計と雨の音の間に、
うっすらと男性の声が混ざりはじめた。



午前3時5分。





また今夜もか、と、
ハドソン夫人はベットから起きあがる。


もちろん、
それは幽霊といった類のものではなく、
人為的なものであることはわかっているのだが。






「今日という今日は文句を言ってやらなくちゃ。」







そう。


この時間になるといつも、
上の部屋に住んでいる住人が
何やら部屋中を歩き回りながら誰かと話し出すのだ。

ひどい時はバイオリンを弾き始めることもある。
こんな時間に。


そのせいでどんどん空室が増え、
こうして大家の眠りも妨げられているわけで。








ハドソン夫人は
手短にあったカーディガンを羽織り、
今日こそは、と意気込んで部屋を出た。















...






「夜」というのは不思議なもので、

自分が大家だというのに、
なぜか忍び足になってしまう。




暗い階段を上がると、
1部屋だけ灯りの漏れている部屋がある。


あそこだ。



黒い扉の覗き穴の上に、

「 2 2 1 B 」

と白いペンキで書かれてある。




いったいこんな時間に何をしているのか。




ハドソン夫人は物音を立てないように、
そっと覗き穴を覗く。











すぐ目に入ったのは、
ここを借りているその「住人」。


彼は落ち着かない様子で部屋中をうろうろしている。


壁が邪魔で見えないが、
どうやら部屋の奥のソファに座っている「誰か」に向けて話しているようだった。





...
221Bの住人
221Bの住人
向かいのパン屋の新しいアルバイトの日本人。

一見平凡な留学生を装っているが...

あれは日本の軍の人間だよ。




確かに、
向かいのパン屋で最近日本人が働きだしたのはハドソン夫人も知っている。


しかし、この住人はなにを言っているのか。



...
221Bの住人
221Bの住人
分かりきったことじゃないか。


まず、留学ができるなんて、
いいご身分の坊ちゃんでなければ無理だろう?

しかし、アルバイトの面接の時に
「家が貧乏で親を頼れないから」と答えたらしい。

おかしな話だ。




そうだろうか?と、ハドソン夫人は思う。

自分を留学に送ってくれたことで、
家が苦しくなったとか・・・




...
221Bの住人
221Bの住人
もちろん。
親に面倒をかけたくない、という律儀な子供もいるだろうね。


ではこれはどう説明する?



スコットランドヤードとすれ違った時、
彼は敬礼したんだ。

敬礼?

小さな子供がヤードの真似をしてやっているのは微笑ましいものだが・・・もう20を超えた大人がやるのはどうだろうか。
221Bの住人
221Bの住人
そう、変だろう?
レストレードも怪訝そうな顔をしていたよ。

そして、いつも大切そうに持っている懐中時計。

日本でもこの国でも時計は高級品だ。
金に困っているのであれば、その時計を売ればいい。


さらにもうひとつ。


彼の話す英語には、
ドイツの訛りがしばしば混ざっている。

近年の日本国は、軍事、政治といった部分に関して
ドイツを模範にしているだとかなんとかで、好意にしているようだよ。


ということは、だ。
と言って221Bの住人はニヤリと笑う。



221Bの住人
221Bの住人
ドイツ人または、
ドイツ語の教養のある人間に英語を学んでいるということだ。

要するに、「軍、または政治に携わっている人間」から学んでいる可能性が高い。

であれば、必然的に本人もそういった類の人間であると推測できるわけだ。


ハドソン夫人にはよくわからなかった。

ソファに座って221Bの住人の話を聞いている誰かも、よくわからなかったらしく、
221Bの住人は不満の声を上げる。
221Bの住人
221Bの住人
なんだ、まだわからないのかい?

じゃあ他にも上げようか。

例えば、彼の首や顔は真っ黒に日焼けしている。
しかし、手は日焼けしていない。


ということは、
彼は日常的に手袋をしていたということだ。


平凡な市民が、そんなことを・・・


・・・ん?



話の途中で、急に221Bの住人は黙り、
視界から消えてしまった。







少し遠くで、
ガラガラとガラスが軋む音がする。



どうやら窓を開けたらしい。













しばらくして、221Bの住人が視界に戻ってきた...と思ったら、その影はどんどん大きくなり...そして



(ガチャリ)



勢いよくハドソン夫人が張り付いていた扉が
開いた。



びっくりしたハドソン夫人は思わず
「あぁぁ!」と悲鳴を上げる。

覗き見をしていたのがバレてしまった。



しかし、221Bの住人は
覗き見をされていたにも関わらず
全く驚いてる様子はなく、

むしろそこにハドソン夫人がいたことを配慮するかのように、夫人にぶつからないスレスレで扉を止めた。
221Bの住人
221Bの住人
すみませんがこの続きはまた今度。

急用ができてしまいましてね。
ハドソン夫人
ハドソン夫人
えっ?
221Bの住人
221Bの住人
階段の2段目と4段目。

ずいぶん軋みますから、
覗きがご趣味なのであれば、修理するのをオススメしますよ?


なんてことだ。

自分が覗き見していたことに、
彼は気づいていたのか。




「では、失礼」と、
彼は部屋の扉を開けたままどこかへ出かけて行った。
こんな夜更け・・・いや、こんな早朝に。






ふと、

ハドソン夫人は、
彼の話し相手のことを思い出した。






しかし、
部屋の中は静まり返っていて人の気配がない。



ハドソン夫人はこっそりと部屋へ入り、
彼が話しかけていたソファを覗く。









そして











愕然としたのである。











そこには誰も座っていなかったのだ。























ハドソン夫人は、
「今日こそは文句を言ってやる」と意気込んで来たほんの数分前のことをすっかり忘れて、


ただそのままその場に立ち尽くしていた。









つづく

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