1885年6月20日
イギリスーロンドンー。
ベーカー街でアパートメントを切り盛りしている
ハドソン夫人には悩みがあった。
その悩みというのは、
たかが10室しかない小さなアパートメントの空室が7つもあることではなく、
たかが1人の、「とある住人」のことであった。
...
(カチ...カチ...カチ...カチ...)
(ザァァァ......)
規則的に音を刻む時計の針の音と雨の音が
木造の部屋に響く。
時刻は午前3時になったところだ。
この時間を深夜と言うべきか、
もはや早朝と言うべきかと、
ハドソン夫人はいつも悩む。
「いつも」というのも、
その時間帯になると、
ハドソン夫人は必ず目を覚ます・・・いや、
覚まさせられるからである。
それは、年寄りによくあるソレではなく、
彼女は「起こされる」のだ。
そして今日も。
(カチ...カチ...カチ...ザァァァ...
であるから....カチ...ハッハッハ...カチ...)
時計と雨の音の間に、
うっすらと男性の声が混ざりはじめた。
午前3時5分。
また今夜もか、と、
ハドソン夫人はベットから起きあがる。
もちろん、
それは幽霊といった類のものではなく、
人為的なものであることはわかっているのだが。
「今日という今日は文句を言ってやらなくちゃ。」
そう。
この時間になるといつも、
上の部屋に住んでいる住人が
何やら部屋中を歩き回りながら誰かと話し出すのだ。
ひどい時はバイオリンを弾き始めることもある。
こんな時間に。
そのせいでどんどん空室が増え、
こうして大家の眠りも妨げられているわけで。
ハドソン夫人は
手短にあったカーディガンを羽織り、
今日こそは、と意気込んで部屋を出た。
...
「夜」というのは不思議なもので、
自分が大家だというのに、
なぜか忍び足になってしまう。
暗い階段を上がると、
1部屋だけ灯りの漏れている部屋がある。
あそこだ。
黒い扉の覗き穴の上に、
「 2 2 1 B 」
と白いペンキで書かれてある。
いったいこんな時間に何をしているのか。
ハドソン夫人は物音を立てないように、
そっと覗き穴を覗く。
すぐ目に入ったのは、
ここを借りているその「住人」。
彼は落ち着かない様子で部屋中をうろうろしている。
壁が邪魔で見えないが、
どうやら部屋の奥のソファに座っている「誰か」に向けて話しているようだった。
...
確かに、
向かいのパン屋で最近日本人が働きだしたのはハドソン夫人も知っている。
しかし、この住人はなにを言っているのか。
...
そうだろうか?と、ハドソン夫人は思う。
自分を留学に送ってくれたことで、
家が苦しくなったとか・・・
...
敬礼?
小さな子供がヤードの真似をしてやっているのは微笑ましいものだが・・・もう20を超えた大人がやるのはどうだろうか。
ということは、だ。
と言って221Bの住人はニヤリと笑う。
ハドソン夫人にはよくわからなかった。
ソファに座って221Bの住人の話を聞いている誰かも、よくわからなかったらしく、
221Bの住人は不満の声を上げる。
話の途中で、急に221Bの住人は黙り、
視界から消えてしまった。
少し遠くで、
ガラガラとガラスが軋む音がする。
どうやら窓を開けたらしい。
しばらくして、221Bの住人が視界に戻ってきた...と思ったら、その影はどんどん大きくなり...そして
(ガチャリ)
勢いよくハドソン夫人が張り付いていた扉が
開いた。
びっくりしたハドソン夫人は思わず
「あぁぁ!」と悲鳴を上げる。
覗き見をしていたのがバレてしまった。
しかし、221Bの住人は
覗き見をされていたにも関わらず
全く驚いてる様子はなく、
むしろそこにハドソン夫人がいたことを配慮するかのように、夫人にぶつからないスレスレで扉を止めた。
なんてことだ。
自分が覗き見していたことに、
彼は気づいていたのか。
「では、失礼」と、
彼は部屋の扉を開けたままどこかへ出かけて行った。
こんな夜更け・・・いや、こんな早朝に。
ふと、
ハドソン夫人は、
彼の話し相手のことを思い出した。
しかし、
部屋の中は静まり返っていて人の気配がない。
ハドソン夫人はこっそりと部屋へ入り、
彼が話しかけていたソファを覗く。
そして
愕然としたのである。
そこには誰も座っていなかったのだ。
ハドソン夫人は、
「今日こそは文句を言ってやる」と意気込んで来たほんの数分前のことをすっかり忘れて、
ただそのままその場に立ち尽くしていた。
つづく
編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。