第9話

9*わんこ男子の朝ごはん(2)
63
2022/04/01 15:00



あなた
アメリカですか?
滋野井 保シゲノイ タモツ
以前、自分のビジョンにマッチする企業と出逢ったんだ
滋野井 保シゲノイ タモツ
まずはそこを基盤にして
事業を大きくしていこうと考えている
滋野井 保シゲノイ タモツ
月末には諸々の準備が終わるから
来月には、アメリカに自分の拠点を移すよ
あなた
来月って、急ですね……
保と会えなくなる。

彼の仕事の方向転換で、彼と私の時間が壊れるなんて思ってなかった。


滋野井 保シゲノイ タモツ
一緒に、来てくれる?
あなた
……え?
滋野井 保シゲノイ タモツ
あなたの下の名前の未来を、俺に預けてくれる?
冗談? と笑って誤魔化したいけれど、保の瞳に笑いはない。

彼の要求に応えるのは簡単だ。

仕事を辞めて彼の起業を支えてやればいい。

愛する人のためならば、それぐらいの決断は、なんの苦労でもない。



——けれど、

私の背後に立つ暗闇が、それを引き止める。





あなた
あの……保さん
滋野井 保シゲノイ タモツ
すぐじゃなくていい。
君には君の世界があるだろうから、
ゆっくり考えて
私の戸惑いに気づいたかのように、彼は早口に告げて席を立った。

頬へとキスをして、手の中に小さな箱を押し付けた。

その箱は空気のように軽いのに、私の心にズシリと重く沈んでいった。



デザイン部のフィッティングルームの中、

ポケットの中から取り出した箱を、テーブルの上に置いた。
前園 結衣マエゾノ ユイ
そのパンドラの箱が、こちらとな
と、結衣が箱を見つめる。

保から受け取った正方形の箱は、資料で散乱したテーブルの中心に置かれている。

ファイルと資料の紙束に埋もれているというのに、

その箱だけが、どこか凛とした空気を放っていた。


前園 結衣マエゾノ ユイ
しかも高級ジュエリーのハリー・ウインルトン。
確実にそういうやつでは?
あなた
そうだと思ったら怖くて開けられなくて
前園 結衣マエゾノ ユイ
あの『極み喰い』の会社のCEOでしょ?
あなた
……うん
結衣の手が伸びて、箱の外箱のリボンを解いた。

ブランドのロゴが刺繍された銀色の箱を開けると、予想通りの品が現れた。

ラウンドカットのダイヤが一粒、プラチナの台座に乗った上品なデザインの指輪。


前園 結衣マエゾノ ユイ
なんじゃ! この飴玉みたいなダイヤは!
い、いくらするのか、ちょっとエゴサしていい?
あなた
それはちょっと……
前園 結衣マエゾノ ユイ
プロポじゃん。
で、どうすんの、ついていくの?
あなた
ついて行かない
前園 結衣マエゾノ ユイ
は?
本気で言ってる?
あなた
本気だよ。
これは、ちゃんとお返しするから
前園 結衣マエゾノ ユイ
返すんだったら、その前に一回はめてみていい?
あなた
これを?
前園 結衣マエゾノ ユイ
こんなでっかいダイヤついた指輪なんか、はめる機会、
もう一生ないだろうから、記念にさ
指輪を箱から取り出して、結衣は自分の左手の薬指にはめた。

ではさっそく、といった調子で、スマホのカメラを動かして自撮りを始めている。
前園 結衣マエゾノ ユイ
どう?
セレブ妻っぽい?
あなた
うん、うん。
だから、そろそろ戻そう
前園 結衣マエゾノ ユイ
……あ、抜けない
結衣は、指にはまった指輪を、無理やり引き抜こうとするが抜けずにいる。

四苦八苦していると、彼女の指の付け根が、鬱血してきたのか見る間に赤くなっていく。
あなた
嘘でしょ?
前園 結衣マエゾノ ユイ
まじだってー!
ぐぬぬぬぬぬ
風早 大我カゼハヤ タイガ
前園さん。
明日のトワルチェック用のトルソー持ってきました!
前園 結衣マエゾノ ユイ
あー! いいとこに!
風早! ちょっと手伝って!
風早 大我カゼハヤ タイガ
はい。あれっ、あなたの名字さん?
風早は、私に気づいて、キョトンとした顔をする。

修業時間をゆうに過ぎている中、”バイトのモデル”がいるなんて予想してなかったのだろう。

私も誰にも会わないと思ったから、ここで相談していたのだ。

仕方なく軽く会釈をして挨拶をする。
前園 結衣マエゾノ ユイ
さあ!
これを思いっきりひっこ抜いてくれたまえ!
風早 大我カゼハヤ タイガ
ラジャ!
風早大我、張り切らせていただきます!
前園 結衣マエゾノ ユイ
ぎゃあーーー!
指ぃい! 指ぃいい!
風早 大我カゼハヤ タイガ
すみません! 無理っす!
前園 結衣マエゾノ ユイ
仕方ない。責任とって、あなたの名字結婚しちゃいなよ
あなた
なんで私が結衣ちゃんの責任を取るの?
風早 大我カゼハヤ タイガ
結婚っ?
前園 結衣マエゾノ ユイ
彼氏にプロポされたんだってさ、
で、その指輪がこれなわけだ
と、指輪をひらひらとさせた。
前園 結衣マエゾノ ユイ
もーさぁ、あなたの名字が、結婚するって返事すればいいじゃん。
で、その間に頑張って痩せて、ひっこ抜くから!
風早 大我カゼハヤ タイガ
困ります!
結婚なんてしないでください!
風早 大我カゼハヤ タイガ
僕が、絶対抜いて見せますから!
前園 結衣マエゾノ ユイ
なんで、風早が困るんだよ
風早 大我カゼハヤ タイガ
化粧室に行きましょう!
石鹸をつけたら滑って抜けるかもしれないっす!
前園 結衣マエゾノ ユイ
ちょちょちょ、痛い、痛いっつうの!
風早がやけに張り切った様子で結衣を引き連れて、部屋を出ていった。

再び静寂が訪れた中で、主人のいなくなった指輪の箱の蓋を閉じる。

きっと物語のハッピーエンドは、この指輪を受け取り、保の未来に寄り添うことだ。

誰もが羨む結婚をして、幸福な祝福を受ける。

きっとそれが普通のエンディング。


あなた
大丈夫だよ、裏切ったりしないから……
前園 結衣マエゾノ ユイ
ぎゃああ!
結衣がフィッティングルームに全速力で飛び込んできた。

何事かと思い、席から立ち上がる。
前園 結衣マエゾノ ユイ
ごめん! あなたの名字!
指輪、流しちゃった!
あなた
ええー!!
結衣の話によると、

化粧室で、結衣の手に石鹸を塗りたくって指輪を外そうとしていたところ、

誤って滑らせて、洗面所の排水溝に指輪を落としたらしい。
前園 結衣マエゾノ ユイ
風早が頑張ってるけど、
おそらく、すでに流れてしまったかと
あなた
やっぱり、金額エゴサしていい?
前園 結衣マエゾノ ユイ
あーん! ごめん!
50年払いで返金するからぁー許して!
保は指輪を失くしたぐらいで、何か言うとは思えないけれど、

できればきちんとしたお別れをしたかった。

あなた
うーん。どうしよう?
風早 大我カゼハヤ タイガ
風早大我! やりました!
どうしたらいいか困っていると、風早の大きな声が部屋に響いた。

全身ずぶ濡れの風早が、ずかずかと大股でこちらへと近づいてくる。

彼が歩くと絨毯に黒い染みが生まれる。

彼が進むたび黒い楕円の水玉が部屋の中に増えていった。

何事かと慄いている私の前に立ち止まると、

私の手首を掴み、手のひらに輝く指輪を載せた。
風早 大我カゼハヤ タイガ
これがあれば、婚約破棄出来るんですよね?
あなた
え?
この数分の間に、彼の頭の中でどんな整理がされたのだろう?

首を傾げたくなる答えではあるが、概ね正解なので、まあよしとする。
風早 大我カゼハヤ タイガ
もう絶対に、どっかにやらないでくださいよ!
あなた
……うん、ありがとう
風早の満面の笑みを見つめながら、

まだ濡れ光るそれを、ぎゅっと握り締めた。

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