第121話

解けた糸。(Draco.M)
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2026/03/27 10:45 更新










私は人間ではない。
魔法使いでもない。



血の中に流れているものはもっと不確かで、もっと曖昧なものだ。人間と同じように呼吸をして、言葉を交わし、笑うこともできる。見た目も何ら変わりない。

それなのに、人の形に収まりきらない名づけようのないものが、内側で静かに息をしている。






それが何なのか私自身にもわからない。
ただ一つ確かなのは、昔から呼び名は決まっていた。










_________「 この女は "悪魔" だ 」










それを否定しようと思ったことは、一度もない。

理解されないことも、
遠ざけられることも平気だった。

一人でいることは強いられた運命ではなく、私自身の選択だった。












それでも、こんな私にも奇跡は訪れた。

ダンブルドアという男が、私をここへ(ホグワーツ)連れてきた。きっと可哀想な悪魔だとあわれんだのだろう。

ここでは、誰も私を "悪魔" とは呼ばなかった。
一人の生徒として扱ってくれた。





もちろん、静かに距離を測るような視線を向けてくる者も少なからずいたが、それでも邪険に扱う者はいなかった。






それがどれほど異質なことか最初は理解できなかった。

しかし、いつの間にか自分が "普通の人間" なのではないかと錯覚してしまうほど、平穏な日々が続いた。







更には、私にも親友という存在ができた。
一年前、突然向こうから話しかけてきてくれた。


最初は警戒していたものの、あまりにもしつこく近寄ってくるものだから、いつの間にか私も気を許し始めた。




気付けば、親友といえるほどの仲になった。



それが余計に私を弱くさせたのだと思う。

あれほど1人で生きていくことを受け入れていたくせに、孤独になることを酷く恐れた。



優しさというものは、毒だ。
時間をかけて、確実に効いてくる。











__________________









図書室を奥へ進むと人の気配が途切れる場所がある。そこが私たちのお気に入りの場所だ。

年季の入った古い木製の机に、午後の光が斜めに差し込む窓際。この時間が一番好きである。





彼はいつも同じ左側の椅子に座り、
私はその右側に腰掛ける。

彼が本のページをめくる指先はいつも静かだった。その紙が擦れる小さな音が私の子守唄みたいなもので、眠気を誘われるとすぐに彼の肩に頭を預けて目を閉じる。















「退屈か?」

『ううん、平気』














時折すきま風と共に、彼の髪が私の頬を撫でる。それが妙にくすぐったくも心地よかった。

本当に深い眠りに何度も落ちそうになるたびに、ガクンと私の頭が無防備に揺れる。すると、彼はそのたびに私を支えるように引き寄せてくれた。


それが、いつの間にか私たちの日常になっていた。


















しかし、そんな日常も崩れるときは一瞬だった。


あれは事故のようなもので、
空がやけに澄んでいた日の午後のことだ。

校舎の影が中庭に落ちて、石畳の温度が足元をひんやりと冷やしてくるのを感じながら、私はただなんとなく空を見上げていた。










空を横切る黒い影。
一羽のカラスだった。

規則正しい羽ばたきで緩やかに飛ぶ、その重力に従わない自由な生命を眺めた。








私はただ、
少しだけ確かめたくなっただけだった。

自分がいつの間にか "普通の少女" になったんじゃないか、と。






触れるわけでもなく、その狙いを定めたモノに“意識を向ける”だけ。実際には見えなくとも、生命には糸のようなものがある。その生命が保たれている糸。







それを、

______________ほどくのだ








本当に解くわけではない。
あくまで頭の中で想像するだけだ。

たったそれだけのことのように思えるだろうが、悪魔である私にとっては恐ろしい力を発揮することになる。










もし、ここであの一羽のカラスが何事もなかったかのように飛び去ってくれたら、私の人生は変わっていたと思う。

ようやく皆んなと同じになれたんだと。










しかし、現実はそう甘くはなかった。








わたしがその糸を解いた瞬間、悲鳴もなく、一瞬だけ羽ばたきが遅れたかと思うと、

次に瞬きをした瞬間にはすべてが終わっていた。







羽が裂け、形が崩れ、
空中で瞬時にぐしゃりと潰れる。

それと同時に赤い雫が鋭く、
霧のように空へと広がる。

水飛沫のように容赦なくそれが私に降り注いだ。





温かいものが頬を伝う。

一滴ではない。
身体を避ける間もなく、複数が弾けるように伝った。







 
形を失ったものが重力に従って地面に散らばる音が響く。酷い音に、反射的に息を呑む。

そして、しばらくその残骸を眺めていた。









やはり何も変わっていなかった。
私は悪魔なんだと現実を突きつけられたようだった。

そもそも何を期待していたのか、自分が馬鹿らしくて笑いが込み上げた。自分の運命から逃れられるわけがないというのに。



私はため息を深く吐くと、自分を受け入れるように今度は勢いよく息を吸った。


















『口に入っちゃった、まずい』
















口の中に広がる鉄の味に、思わず眉をひそめる。舌先にじわりと滲んだ血を感じて、そっと顔を背けた。

唇の端に溜まったそれを、軽く息と一緒に押し出すようにして地面に吐き出した。



頬についたその血を親指で雑に拭った瞬間、背後に気配を感じた。

振り返ると、
そこには親友(彼)がいた。












目が合ったが彼は何も言わなかった。
ただ、こちらを見ていた。

なんて声を掛ければいいか分からなかったんだと思う。無理もない。親友が悪魔だという現実を改めて突きつけてしまったから。








しかし、その目は恐怖を感じてるわけでも、嫌悪感に満ち溢れていたわけでもなかった。

だから、今思えばそこまで焦ることではなかったと思う。私が普通の人間ではない"悪魔"であることは、学校にいる全員が知ってるのだから。

それを理解している上で、彼も私と居てくれた。




それなのに、今更自分の存在というものがあらわになり、胸の奥が静かに軋む音がした。












(あぁ、もうだめだ)
     そう心の中で呟いた。










何が正しいか頭で考える前に、
感情だけが先に動いた。


嫌われたかもしれない。

たったそれだけの小さな可能性が、
ひどく現実味を帯びて迫ってきたせいだ。
















『見た?…よね』














冷静さを必死に取り繕った声は、自分でも驚くほど穏やかだった。

彼は一拍置いて、
















「……ああ」














と、短く答えた。



否定も、誤魔化しもない。
ただ目の前の事実を静かに受け取っていた。

だけど、それが余計に怖かった。



私に更に追い討ちをかけるように、足元に落ちた赤黒い塊(カラス)が視界の端に入った。


















『ごめんね、見たくないもの見せちゃったね
 ……やっぱり私って悪魔だね。笑』

















言い訳にもならない言葉が、零れる。







彼は何も答えなかった。
どんどん沈黙が長くなってゆく。







耐えきれなくなって私は誤魔化すようにヘラヘラと笑ってみせるが、彼の態度は依然と落ち着いていて、私をとらえる視線は揺るがなかった。

その視線が、胸の奥に突き刺さる。











__________彼に嫌われた?


不確定な未来の不安が、今まで積み上げてきた全てを容易く上回る。



彼は優しい。
こんな私でも受け入れてくれたかもしれない。

でも、0.1%の不安が拭いきれなかった私は、彼の返答を待たずにシャツの襟元を乱暴に掴むと、スカートのポケットから取り出した杖を彼の額に当てた。


















『…………ごめん』

















自分の声が、やけに遠い。


















「おい、なんの真似だ」

















私の突発的な行動に彼は顔を顰め、杖を追い払うように腕を思い切り掴んできた。

しかし、その抵抗する姿を見ると余計に力が増した。

返事を聞く前に全てを終わらせたかった。


















『お願いだから…』
















言葉が次々と崩れる。

















『忘れて』















そう言った瞬間、彼の顔はひどく歪んだ。















「何を言って……」

『全部。』















情けないほど視界が滲み、声も震えた。

それは強気に吐いたはずの言葉とは、あまりにも不釣り合いだった。



















『私のこと、全部忘れて』

















震えた唇から溢れた言葉を、彼が聞いたときの表情を私はきっとこれからも忘れられない。

彼もまた、今にも泣き出しそうな顔をしていた。



「忘れて」と口にした私の言葉が、あまりにも残酷だったのか。それとも、本当の姿を晒した私がただひどくみにくく見えたのか。

あるいは、一人で焦り、勝手に傷ついている私の姿が、あまりにも滑稽こっけいだったのか。


理由はどうであれ、いつも冷静で取り乱すことのない私が初めて見せたその動揺に、彼もまた隠しきれないほど揺れていた。
















「離せよ、あなた
 落ち着いて僕の話を聞け」


『何も話すことなんてない』


「あなた」


『見た通りだよ、私は…』


「別に僕は何も言っ…」


なぐさめなんかいらない!
 何も言わないで、お願い』


















取り乱した私を必死になだめようと、彼は何度も優しく名前を呼ぶ。そして、震える私の手を取った。

しかし、その優しさでさえかたくなに振り払った。



彼の力よりも杖を握る私の指に込めた力のほうが、わずかに勝っていく。彼の額に突きつけた杖の先が、じわじわと皮膚に食い込んでいくのを感じた。


















「……僕の記憶を消して、
 お前の気は晴れるのか」
















その言葉に一瞬指先が揺らいだ。





気が晴れるのかはわからない。
胸の奥に溜まったものが軽くなる保証はどこにもない。


ただ、
こんな姿を一番見られたくなかった。

彼だけには。






初めから彼が私を悪魔だと思っていたのならそれまでだが、" 少女 "として少しでも見てくれていたとしたら、彼の中で私が“悪魔”に変わってしまうのだけは、

_________どうしても耐えられなかった





だから、私は小さく頷いた。

彼は何か言いたげに口を開けたが、私の頬に止めどなく流れる涙を見て、少しの沈黙のあと静かに口を閉ざした。

















「_____そうか。」















彼はそれだけを言って、ゆっくりと手を離した。力強く掴まれていた腕が、彼の指の形をなぞるようにじわりと鈍い痛みが広がる。


私は震えた唇を必死に噛み締めながら生唾をごくりと飲み込み、更に一歩ジリジリと近づいた。

その間も彼は視線をずっと私から逸らさなかった。

















「一つだけ、いいか」














そう言うと、私の頬に彼の手が伸びた。

止めどなく伝ってくる涙に人差し指で触れると、それを優しく拭った。

そして、ほんのわずかに口元を緩め、

















「僕は、何度でも君を好きになるから」
















静かに、そう言った。

彼の言葉を理解する余裕もなく、ただその言葉だけが異様に重く胸に残りながら、


















『______Obliviateオブリビエイト(忘れよ)_』
















そんなたった一言で、私は親友から逃げた。











  

それからの日々は、
驚くほど普段と変わらない日常だった。

もちろん、私の隣に彼はいない。


欠けたものがあるはずなのに、
世界は何事もなく回り続ける。








廊下ですれ違うが、
私と彼は言葉を交わさない。

当然だ。
知り合う前に戻ったのだから。


彼にとっては私なんて同級生の一人だ。
たったそれだけの繋がりだけだ。







二人で居た記憶は全て消えた。





これで私が目の前で何を殺してしまおうが、不気味な力を不気味がられようが、悪魔だと罵られようが傷つくことはなくなった。

だから、良いように言えば肩の荷がおりたのかもしれない。










そう思うようにしている。













そして、私は1人になっても尚、もう消えてしまった思い出にすがるように、図書室へと足を運ぶ。

特別興味があるわけでもない本を片手に、読むフリをするように視線を落とす。ズラリと並んだ文字は、何ひとつ頭に入ってこない。





ページだけが意味を伴わないまま静かにめくられていく。指先の動きすら、どこか他人事みたいに感じた。

隣の席が空いていることぐらい大したことではないと自分に言い聞かせながら、落ち着きのない右手はページをめくるのをやめない。









仲良さげな生徒たちの小声で話す楽しげな姿が、視界の端に嫌というほど入ってくるが、私はそれを見ないように背を向けた。

少し前までは、私たちもあんな風に見られていたんだろうか。

しかし、今は違う。

高窓から差し込む淡い光が、スポットライトのように愚かな私を照らしてくるが、一人で生きていく生き物にこの光はあまりにも眩しすぎた。





小さく息を吐いて本を閉じると、わたしは椅子を後ろに引いた。

『教室戻ろ…』そう独り言を呟いたとき、


















「いつも退屈そうな本ばっか読んでるな」
















空から声が落ちてきたかのようだった。
聞き慣れた声に顔を上げた。

淡く照らされた頬と、色を持たないほどにホワイトブロンドの髪が日光を弾く。















『……そう見える?』















驚きを隠しながらも、返事は端的に返した。
これ以上彼に関わらないようにと、早々と席を立った。

















「顔に出ていた」
















その通りだ。本なんか好きではない。

だから、本を読む貴方の隣でいつも眠ってた。本を読む君の隣で、君の体温を感じるのが好きだった。







_____とは、もちろん本人には言えない。




私は逃げるようにその場を去ろうした。しかし、会話を終わらせるどころか彼は私の腕を掴んで引き止めるように、半ば強引に私を椅子に座らせた。


















「前から君と話がしてみたかった」

















独り言のように言って、その隣に腰を下ろした。



距離が近い。
逃げなければまた同じことの繰り返しなのに、なぜか本気で拒めなかった自分がいた。








彼にとっては、これが私との初めての会話。

しかし、私にとっては親友だった彼との久しぶりの会話だ。涙が出そうなほど嬉しかった。



そんな私の感情も知らず、彼はポケットからあるものを取り出すと、机の上にコトリと置いた。

視線を向けると、見慣れた包み紙に包まれた小さなキャンディー。蜂蜜の香りがほんのわずかに漂った。








 








『………なにこれ』















澄ました顔をして平然を取り繕うが、胸の奥はざわつきはじめた。

彼は適当に近くにあった本を手に取り、平然とした顔でページをめくりながら言う。

















「好きだろ」

『何で知ってるの』














それは私がいつも持ち歩いていたキャンディーだった。甘いものを食べると落ち着くから、いつもポケットに忍ばせている。
















「食べてるのをよく見る
 僕はあまり好きじゃないが」 

『…私のためにわざわざ買ったの?』

「言わせるなよ、察してくれ」

















彼の体温で少し柔らかくなった飴の小包み。

前から私に話しかける口実を探して、ずっとポケットに忍ばせていたのだろうか。

言葉に詰まった私に反して、彼はほんの少し照れたように目を背けた。


____________そんな顔しないで

そう、心が叫んだ。




















『私のこと、怖くないの?』

















彼はすぐ答えなかったが、代わりに視線を一切逸らすことなくただこちらをジッと見ていた。その時間がやけに長く感じられる。

やがて、わずかに息を吐いて呆れたようにフッと笑った。


















「思わないな」

















拍子抜けするほど、あまりにも簡単にそう言った。
















『……なんで』

「僕にはそう悪魔見えないから」

















その言葉にほんの一拍置いてから、
私は彼と同じように呆れ笑いをこぼした。

















『それは見た目が人間と一緒だからよ』

「くだらない」

















低く、切り捨てるような声だった。
そして、またすぐ被せるように続けて言った。

















「見た目で決めつけるほど僕は暇じゃない」

















お互いの視線がほんの少しだけ近づく。
見誤るなよ、とでも言うように。






 










『私の恐ろしいところをその目で
 まだ見てないから言えるんだよ』

「……そうか」

『うん。』

















きっと、そうだ。
いくらでも口だけなら言える。

『ありがとう、話せてよかった』と、言葉を残してわたしは彼から逃げるように立ち上がり、椅子の脚が床を擦る鋭い音を立てながら急いで背を向けた。

彼の妙に落ち着いた視線を断ち切るみたいに歩き出す。




しかし、彼は言う。





 











「それなら…」
















彼の声に、足が止まる。

喉の奥が、わずかに詰まる。
呼吸の仕方を忘れたみたいに、空気がうまく通らない。


















尚更なおさら、君から目が離せないな」

















振り返ると彼と目が合った。

冗談でも、軽口でもない。
真っ直ぐなその瞳に思わず視界が滲む。



    













『監視したいの?』

「君に近寄る口実ができるなら
 そう言ってもらっても構わない」

『私のこと好き?』
















あまりにも唐突な問いだったと自分でも思う。
しかし、考えるより先に口をついて出ていた。




突然の私の言葉に、彼はわずかに動揺したように視線を逸らした。ほんの一瞬、言葉を失ったように口を閉ざし、どう返すべきかを探るように眉を寄せた。

やがて、曖昧に濁しながら無造作に頭をかいた。

その横顔の端で、耳の先だけがわずかに赤く色づいている。隠しきれない熱が、そこにだけ滲んでいた。


















「……どうしてそうなる」















はぐらかすように言葉を返し、距離を取ろうとする。
彼らしかった。

けれど、分かりやすい彼の表情がもうすでに答えに近い。

















『興味本位で近づいてきただけ?』
















彼は一瞬で目を見開いた。

間を置くことすら忘れたように息を呑み、
「それは違う」と、被せるように言い切った。

その声音には、わずかな焦りが滲んでいた。



やがて、覚悟を決めたのか諦めたように深く息を吐くと、ゆっくりとこちらを見た。

















「好きだ」















そう、はっきりと言った。















『……なんで私なの』
















彼は、一瞬だけ言葉を探すように視線を落とした。















「……さぁな
 気づいたら、そうだった」

『やめてよ
 理由もなしに私のこと好きになったの?
 …あり得ない、そんなの』 

「そんなに理由がないとだめか」

『変だよ』

「変?」

『…うん』



















彼は露骨に顔をしかめ、理解が追いつかない様子で視線を向けた。

















「理由がないと人を好きになるな
 と、言いたいのか?
 恋は理屈じゃないだろ」

















この男は分かっていない。

恋をすることに理由なんていらない。
そんなの言われなくても分かっている。


















『…わかってる』

「いや、分かってない」

『……ううん
 分かってないのはそっちだよ
 恋は理屈じゃないなんて言葉はね…』

















自分で言うにしては苦しい言葉。




















『人間…だった場合の話でしょ』


















力強く握りしめた手のひらに、
爪の先が食い込んでジンジンと痛む。
















『私は人間じゃない
 こんな普通じゃない奴を好きになるなら…
 理由ぐらいないとおかしいから』

















わずかに揺れるお互いの呼吸だけを残しながら、私たちは静寂に包まれた。視線は交わったまま、触れれば崩れそうな均衡が細く張り詰めている。



壁際の掛け時計が、乾いた音を刻む。

そして、12時の鐘が鳴り響いた瞬間、口を開いたのは彼のほうだった。





















「なぁ、君が言うその“普通”って、なんだ」

『だから、それは…!!』

















喉の奥に、言葉が込み上げる。
そのまま押し返すように、勢いのまま声を荒げた。

けれど、次に彼が言った言葉に遮られ、私の声は行き場を失い喉の奥に引っかかった。



















「君のその普通とやらを、
 僕に押し付けないでくれるか」

















言い返すはずだった言葉が、頭の中で錯乱した。
















「そんなに理由が欲しいなら言ってやるよ

 気づいたら好きになってた
 …それが理由だ」


















彼の真っ直ぐな想いが、何の迷いもなく向けられる。
逃げ場のないまま、その蒼い瞳に吸い込まれた。



また徐々に視界が揺れ始めた。
彼の輪郭や、天窓から差し込む日差しが淡く揺れた。

瞬きひとつで崩れてしまいそうなほど、涙腺が脆くなっていく。
















「お前が勝手に線を引いてるだけだろ
 自分で何もかも決めつけてる」
















胸の奥で、何かが軋む。

抑え込んでいたはずのものが、
ひとつずつ、ほどけていく。


















「僕の気持ちを勝手に踏みにじるな」
















そんな彼の言葉に、
胸の奥でひときわ大きく鼓動が跳ねた。











____僕は、何度でも君を好きになるから

あのとき最後に残された言葉が、ようやく遅れて私の中で意味が明確になってゆく。







以前の彼は、そもそも「好きだ」なんて言葉を私に口にすることはなかった。

けれど、私のことを大切に想ってくれていたのは確かだった。







他の誰よりも近くで、
誰よりも静かに、深く想っていてくれた。





でもそれは純粋な愛情ではなく、
きっと私に対してのあわれみだと思っていた。

普通じゃない私を放っておけなかっただけ。
可哀想だから優しくしてくれているだけ。


そう思えば、全てが納得できたからだ。









その優しさに甘えている自分をどこかで許していた。








一人の少女として見てくれているのかも…
なんて。

そんな考えが浮かんだことは正直何度もあった。









けれどそのたびに、自分で自分を笑った。



あり得ない。思い上がりだ。
そんなはずがないと。

自分で線を引いて、切り捨ててきた。






普通じゃない私のことを愛してくれる人なんて居るはずがないと、ずっとそう思っていた。

むしろ、屈託のない真っ直ぐな愛情を感じるたびに、自分が惨めになるほど素直に受け入れることができなかった。









けれど、やっと今
全てを理解したような気がした。


彼が何も言わず、私の側にいてくれた理由。
それは、私を待っていたのだ。







私が自分で引いたその線を、自分の手で越えるのを。








悪魔であることから、
愛情を受け取ることから逃げている私を。

ずっと。








以前の私に、どれだけ彼が「好きだ」と伝えてくれても、
きっと私は首を横に振っただろう。

理由をつけて逃げたはずだ。










それを、彼は分かっていた。
だから何も言わなかった。






言葉ではなく、時間、態度で、
ただ隣にいることで。

愛される資格があるということを、
私自身が気づくまで待ってくれたのだ。







静かに、深く、包むように
私の側に居てくれた。










それなのに、最後に残された言葉だけを置き去りにして、私はあのとき自分の手でそれを断ち切ってしまった。






____僕は、何度でも君を好きになるから

それはあの瞬間の私に対して宛てた言葉ではなく、この先の未来の私に向けられた言葉だったのだと、ようやく理解した。









「いつか自分が人に愛し愛される資格があることに気づき、そして自分の想いに向き合ってくれる日がくるまで、僕は何度でも君を好きになる。」

そんな想いをすべて、あの一言に込めたのだ。





ほどけかけたものが、
ゆっくりと形を取り戻していく気がした。



















「…これでもまだ他の理由が必要か?」


















低く落ちたその一言で、遠のきかけていた意識が無理やり現実へと引き戻される。



込み上げてくるものを、抑えきれなかった。

必死に首を横に振りながら、頬を伝う雫を制服の袖で乱暴に拭った。



視界が滲んで、彼の姿がぼやけていく。

擦れる布の感触がやけに冷たくて、余計に泣いてることを自覚してまう。

拭っても、拭っても、次から次へと溢れてきた。



そんな私を見て、彼は戸惑ったように瞳を揺らした。

静まり返った空間に自分の荒い呼吸と、声ともつかないみっともない泣き声だけがやけに響いた。

















「……泣かせるつもりは…」













そう言いながら私の頬へと伸ばされた手は、途中でぴたりと止まる。

触れていいのか迷ったまま、そのまま宙に置き去りにされたみたいに行き場をなくして留まっていた。



その不器用さが懐かしくて、
余計に涙が止まらなかった。

















『ねぇ、』
















涙を滲ませたまま、ふっと力の抜けた笑みがこぼれる。
頬を伝う雫をそのままに、静かに彼を見上げた。
















『私のこと、いつから好きだったの?』

「……それを知って、どうする気だ」














逸らされた視線に、また僅かに赤く色づいた耳。

それを見た瞬間、胸の奥で張り詰めていた何かが、ふっと落ちた。











彼と初めて言葉を交わしたあの日から、
すべては始まったのだと私はそう思い込んでいた。

けれど、現実は違った。





彼にとっては、
それよりもずっと前から静かに始まっていたのだ。



あの日、初めて言葉を交わしたあの瞬間は、
私にとっての始まりであり、

彼にとっては、
ようやく想いが届いた瞬間だったのだ。

















「嫌な気持ちにさせるぐらいなら
 聞かないほうがいい」

『ううん、嬉しいから泣いてるの』















そして、迷わず彼の手を取った。

指先に触れた瞬間、彼の温かい体温に包まれた。

一瞬だけ驚いたように彼の瞳が見開かれたが、私の楽しげに笑う姿を見ると力が抜けたのか、徐々に頬を緩めていった。
















『ここも好きな場所なんだけど
 もう一つ私のお気に入りの場所があるの』
















そう言って、彼の手を引いた。
引かれるままに彼の脚が一歩、二歩とついてくる。

歩き出すたび、窓から差し込む細い光の帯を、ふたつの影が静かに横切った。

揺れる影が、床の上でそっと重なっていく。


















『ドラコもきっと気に入ると思うよ』
















ふいに指先に触れる力が、わずかに強まったのを感じた。ぎこちないその感触が、かえって彼らしくて。

一瞬、息が止まった。
















『ううん、違うね』
















言いかけたまま、ほんの少しだけ言葉を止めた。
沈黙の中で、鼓動だけが静かに波打つ。

そして、そっと言葉を選び直した。

















『2人のお気に入りの場所だったの
 そこでいろんな話聞かせて』

















不思議そうに彼がこちらを見る気配がして振り向いた。その視線に気づくと、そっと笑いかけた。


彼は忘れてしまったけど、
私は忘れない。
















「2人って誰のことを?
 ……それと、僕の名前知ってたのか」

















その言葉に、そっと指先へ力を込める。
重なった手のひらの中で、もう一度指を深く絡めた。

















『……もちろん』
















もう一度だけ、やり直すチャンスが欲しい。

自分からほどいてしまった距離を、
今度は自分の手で結び直したい。

















『私の親友の名前を忘れるわけない。
 それに、、











 ____私の好きな人の名前でもあるし』























【解けた糸】 fin.






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