挨拶の練習は翌朝も続く。
自転車で登校中も、校門をくぐって昇降口へ向かうときも、
廊下を歩くあいだも、あなたはずっと1人で繰り返していた。
気合いを入れすぎて早く来たから他の生徒の姿はまだない。
教室にも一番乗りだ。
机にカバンを置き、すっと息を吸う。
だめだ、声が裏返ってしまった。
もっと大きく。はっきりと。
思いっきり深呼吸して、もう一度。
言いかけたと同時、教室の扉がガラリと開いた。
ふわりとあたたかい風が吹き抜けた気がして、思わず目を細めた。
太陽の光を背負って輝く柔らかな茶色の髪が現れる。
誰もいない教室で1人で挨拶していたあなたは、
間違いなく不審人物だった。
どす黒いオーラに包まれて下を向いた。
その時だった。
聞きやすい低音の挨拶が返ってくる。
今のは誰に言ったのだろう。
教室にはあなたと山田くんしかいないのに。
うろたえて上手く言葉が出せずにいると、
山田くんの足音が近づいてくる。
あっという間に目の前までくると、背をかがめてぐっと覗き込んできた。
吐息が触れるほど近い距離から、有無を言わせぬ調子で告げられる。
あまりに自然に促してくるから、思わず必死に口を開いていた。
にこりともせず、かといって呆れたふうでもない。
かーっと頭に血が上る。頬が熱い。
心臓が激しくはねて、口から出てきてしまいそう。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!