我慢した溜息を思いっきり吐き出した頃には既に衣装直しも終わっていた。食べる量もセーブしているため、男と比べれば格段に細い部類に入る。既存の紳士服を少しだけ詰め、腕を伸ばしたり、前屈してみたりした。
衣装係の子がそう尋ねるので、「問題ないで」と答える。今まで騒がしかった外野は徐々に部活の準備を始め、「また明日ね」と言って教室から一人、二人と消えて行った。衣装合わせの子も裁縫セットを片付け、「手直し必要なところは部活でやっちゃうね」と言って家庭科室の方へ行ってしまった。
気付けば教室には二人以外の誰もいなくなっていた。隣の教室からはまだ声が聞こえるので、このフロア自体に人はいるらしい。
自分の机に腰かけ、机の中から教科書などを引っ張り出す。それを鞄に詰め込んでいると、既に帰る準備を終わらせたらしいあなたが前の机に座ってこちらを見ていた。
そう言ってあなたは、俺の頭に被さっていたウィッグをひょいと取り上げた。
ウィッグが外され、中でまとめていた髪がはらはらと後頭部から落ちてくる。前髪だけがウィッグのせいで癖がついたままで、降りてくることはなかった。
前髪をちょこちょこといじりながら癖を直そうとするが、上がった前髪は戻らない。
顔にかかった髪をあなたが耳にかけてくれた。睫毛の本数まで数えられそうな程の距離。これは、恋人同士ではない男女の距離間ではない。キスができそうな距離なのだから。
どうかしてると思う。耳にかける時に偶然触れたあなたの指が熱くてたまらなかった。でも、離れてほしくなかった。なあ、キスしてもええ?この気持ちが伝えられたらええのになって何度となく考えた。でも、彼女のこの無垢な顔を見るたびに、俺の考えが間違っているということを理解する。
それは廊下の方から聞こえてきた。俺もあなたもそちらを見ると、そこには自分のクラスの女子が立っていた。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!