誰もいなくなった保健室で1人深呼吸した。
体を起こし胸に手を当て、初めて心臓の動きが少し早くなっていることに気づいた。
蒼君との数秒前に交わした会話に胸がズキズキと痛む。
一方的に私が追い払った…蒼君は私が嫌いだから。私の顔をずっと見ていることにならなくて清清しただろうな。
そう思うとなんだかむかついてきて、一方で蒼君を追い出したことに対する罪悪感が胸に込み上げてきた。
窓の外の景色は、緑からやがて茶色へと色褪せはじめていた…
一枚、もう一枚…と葉が落ちていきやがて細い枝だけが残る寂しい景色が出来上がる。
10月
「今日から本格的に合唱コンクールの準備が始まるから、本番までの1ヶ月間気を抜くなよ?」
下條先生はそう言うと、後ろに束ねたポニーテールを触りながら続けた。
「えっと…それで伴奏なんだが、藤咲か小坂に頼みたいんだけどどっちかできるか?」
申し訳なさそうにこちらを見てくる下條先生から視線を逸らし俯く。
先生はだよなとでも言いたげにため息をついて、手元にあるバインダーに視線を落とした。
一瞬で静かになった教室に一人の声が響いた。
「せんせー、伴奏は夏乃でいいと思いまーす」
発言主はやる気なく手を上げ、真っ直ぐに先生にそう言うと満足げに手を下げた。
「小坂お前な、やりたくないんだったらそう言え…藤咲に押し付けんな」
急にクラスの空気が和み、視線が私に移る。
「確かに蒼がピアノとか想像できねー」
「わかる、藤咲さんなら安心だよね!」
「蒼かっけぇ、藤咲さん任されてやってくれよぉ」
次々と聞こえてくる声に戸惑い、息を呑む。
蒼君は私の方を見ようともせず肘をついたまま教卓を真っ直ぐに見ていた。
「とりあえず藤咲仮で決定でいいか?じゃないと進まないんだよ」
下條先生は申し訳なさそうに言った。
「は、はい…」
不本意だ。誰がピアノなんか弾くかよ…
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!