第9話

俺じゃなくなっても(たつはる)
711
2021/07/05 01:12
晴人
晴人
達也くん……
待合室で立ち尽くす彼の顔は悲愴感で溢れていた。病気なのは俺だっていうのに、達也くんの方がよっぽど死にそうな顔をするのだ。震える手が俺の頬を撫でた。この手の温度にさえ何も感じなくなってしまうのかと思うと、諦めたつもりでも虚しくなるのだ。





奇病というのかなんというのか、突然ゾンビみたいに周囲の人間を襲う人が現れた。それは徐々に世界中に広がった。映画みたいに世界が終わるほどじゃない。発症は珍しいし感染もしない、身体が腐るわけでもない。ただ理性のない化け物になるだけ。最初は混乱した社会もすぐに落ち着いて、それは他の難病と同じ括りに入れられた。
晴人
晴人
ごめんね達也くん
達也
達也
いいよ…それより今日はちゃんと寝れた?
晴人
晴人
うん
発症から1ヶ月、俺はまだ生きている。

普通の人間を装ったって、脳が違う生き物になるのは止められない。恋人の隣でただ最期の日を待っている。病院に行った日、達也くんは待合室で俺を待っていた。そして診察室から出た俺の頬を撫でて、「一緒に住もう」と言った。
達也
達也
調子どう?昨日と変わんない?
晴人
晴人
うーん、多分そんなに変わんないと思うけど。よくわかんないなぁ
達也
達也
見た目は全然変化ないな
晴人
晴人
そりゃ脳の病気だからね
達也
達也
早く薬ができたらいいのに
晴人
晴人
作ってはいるらしいけどね
達也
達也
今できたら間に合うのに…
達也くんは静かに目を伏せて俺を抱きしめた。毎日同じことを言われる。正直俺は間に合わないと思う。運が悪かったとしか言いようがない。
晴人
晴人
しょうがないよ…人間の脳って、まだ全然解明できてないんだよ
達也
達也
しょうがないで済ませらんないよ。お前だって怖いだろ
晴人
晴人
もう怖いとか感じないんだよね
達也
達也
………
達也くんの腕に力がこもる。
日々感情が抜け落ちて人という存在から離れるのを感じる。今俺に残っているのは、達也くんへの愛情と音楽への未練だけだ。そうやって最後に残るのが、俺の一番大切なものなんだと思う。そんなつもりなくても、俺にとっては家族も太我もファンも、達也くんと音楽よりは大事じゃなかったんだ。次に消えるのはどっちなんだろうと、達也くんを抱きしめながら考えるのは残酷だろうか。
晴人
晴人
それに一週間経たずに死んじゃう人もいるんだもん。もったほうだよ
達也
達也
そんな……
晴人
晴人
俺、死ぬ瞬間まで達也くんといれて幸せだよ
達也
達也
………ハル…
肩が冷たくなった。達也くんが泣いて、涙が服に染みたんだろう。それなのに俺は悲しいと思えないのだ。



さらに二日が経って、俺の中から音楽はなくなった。俺のために泣いてくれる彼への愛しさだけが、たしかに心の中で燃えている。
もう俺は明日死んでもおかしくない。自分のことだからわかる。毎日泣いているせいで達也くんの目は常に腫れている。歌いたい、ステージに立ちたいとすら思えなくなった俺は、達也くんに人生最期のお願いをすることにした。
達也
達也
ハル、お願いって…?
晴人
晴人
うん。あのね、俺達也くんに殺されたいの
達也
達也
……は?
晴人
晴人
この病気ってさ…脳が完全に人間やめたら、体が動いてても死人ってことになるじゃん?
達也
達也
………
晴人
晴人
そしたらさ、誰かが保健所に連絡して、処分されてって流れじゃん
達也
達也
………
晴人
晴人
でも俺、誰かも知らない人に首落とされたくない。どうせなら達也くんに殺してほしい
達也
達也
……そ、なの、できるわけ、
晴人
晴人
法的にはオッケーじゃん。正当防衛ってことになるから。お願い
達也
達也
法とかそんな問題じゃないだろ!
久しぶりに怒鳴られた。真っ赤に腫れた達也くんの目からぼろぼろぼろぼろ涙がこぼれ落ちた。
達也
達也
恋人殺せるわけないだろ!
晴人
晴人
いや、殺すって言い方してるだけで、実際にはもう死んだあとだから、
達也
達也
それもおかしいだろ!たしかに……脳みそは、そうだけど…体は生きてるじゃん…
晴人
晴人
死ぬんだよ。人間じゃなくなるんだもん。国がそうやって決めてるんだもん
達也
達也
でも……
晴人
晴人
だから俺を殺して
達也
達也
……………やだ…
震える声で否定された。
俺が死ぬ前に、俺がこんなお願いすらできなくなる前に、最後に残った達也くんへの気持ちすら消えてしまう前に、約束してほしかった。
晴人
晴人
達也くん、お願い…一生に一度のお願い
それでも達也くんはうなずかない。
達也
達也
いやだ……死なないで…おいてかないで…
晴人
晴人
………ごめんね…
達也
達也
やだ……やだ………
晴人
晴人
達也くん
達也
達也
やだ……!
晴人
晴人
……俺が死んでも、俺だけを好きでいてくれる?
達也
達也
……!当たり前だ!ずっとハルだけが好きだよ!
晴人
晴人
俺、もう俺じゃなくなっちゃうんだよ。達也くんのこともわかんなくなっちゃうんだよ
達也
達也
それでも俺はハルが好きだ!俺の恋人はハルだけだ……!だから…
達也くんが俺の胸に縋り付いた。彼の体温が広がると同時に、その代償みたいに心の中の最後の火が消えた。
晴人
晴人
(あぁ……)
喪失感が胸を満たした。本当に彼を愛していた。だけどもう好きと思えない。好きがどんなものだったかわからない。達也くんが不意に俺を見上げ、ぐしゃりと顔を歪ませた。
達也
達也
ハル……
あとは言葉にならなかった。達也くんの嗚咽だけが部屋に響く。

最後に、心からの大好きを達也くんに伝えたかった。

達也くんは真っ青だった。あの日、待合室で俺を待っていたときの表情と似ていた。
晴人
晴人
ごめんね
俺はまた謝った。

照明に照らされて青ざめる彼の顔を俺は忘れられない。達也くんの潤んだ瞳が、もうすっかり感情を失った俺の心に焼き付いた。

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