この世界に足を踏み入れた瞬間、いつもは聞こえてくる声。
「忘れないで」という声が、今日は一切聞こえない。
静寂に包みこまれたモノクロの世界は、いっそ不気味なようにも感じた。
水先も異変を感じ取ったのか、俺の肩から降りて足早に家へと入っていく。
それでも、案内人だからか俺のペースに合わせてくれていた。
嫌な予感が浮かんでくる。
付喪神はさいごの力を振り絞って人間を呼ぶと言っていた。
もしかしてもう、力が尽きてしまったのか?
何度も呼んでくれていたのに、俺がちゃんと答えようとしなかったから。
どんどん弱っていって、それで……。
不安を打ち消すように、俺も必死になって探した。
台所、洗面所、居間……。襖を開けては、そこに何もないことに徐々に焦りを感じてくる。
もういないのだろうか。もう、会えないのだろうか。
──ぽちゃん。
微かに聞こえてきた水音に足が止まる。
水先にも聞こえていたようで、目が合った。
ずっと聞きたくなかった音、ずっと警戒していた音にこんなに喜びを感じるなんて。
水先の先導のもと、俺たちはまた走った。
閉ざされている一枚の襖。その前で立ち止まった水先が振り返った。
この先にいるんだ。
一度深呼吸をして、襖に手を掛ける。
そう言い聞かせながらゆっくり襖を開くと、そこは和室ではなかった。
見慣れた、見慣れ過ぎた、洋室。
ばあちゃんの家ではなく、そこは今も住んでいる俺の部屋。
ただ、家具やインテリアは、まだ小さい時のもの。
その真ん中に、喪服を着た幼い自分が座り込んでいた。
手に持った鏡をじっと見つめている。
後ろから父さんの声が聞こえてくる。
俺と水先の間をすり抜けた父さんが部屋の中へと入って来た。
喪服姿で、少しだけ背が丸まっている。
覚えてる。これは、鏡が壊される日だ。
俺に合わせてしゃがんで、小さな声で話しかけてくる。
小さな俺に向けられた父さんの顔は、疲労を滲ませながらも、蕩けるほど優しかった。
無邪気に、嬉しそうに、手にした鏡を父に見せつける俺。
確かに母さんは寂しくなったら鏡を見ろって言ってた。一緒に居る気がするでしょって。
それを純粋に守っていただけかもしれない。
けれど、その無邪気さはこうして客観的に見ると、どこか狂気に似たものを感じさせる。
いたたまれなくなって、視線を逸らすと、その先にあった父さんは泣くのを堪える様な顔をしていた。
でも、父さんはすぐに笑顔を浮かべ、小さな俺に優しい声で話しかける。
小さな俺が、鏡の中に話しかけた。
まるで、そこに母さんがいるかのように。
ゾワリとする。
無邪気な、幼い言葉。けれど、それはまるで死に引き寄せられているような発言にも聞こえた。
そんな俺の手から、父さんは鏡を奪い取った。
そんな俺を振り払って、父さんは鏡を床にたたきつけた。
知ってる。記憶の中で何度も繰り返し再生された場面。
でも、立ち尽くす父の表情は──俺の記憶にあった「鬼の形相」なんかじゃなかった。
父が浮かべていたのは、怯えと、どうしようもない悲しみに満ちた表情だった。















編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。