見たこともない父さんの表情に、俺は動くことが出来なかった。
ずっと、怒ってばかりの人だと思っていた。
母さんが亡くなって、優しかったはずの父さんが変わってしまったと思っていたから。
けど、本当に変わってしまったのは、俺の方だったのかもしれない。
名前を呼ばれ、ハッとする。
もうそこには父さんも、小さな俺も、割れた鏡もなかった。
ただ一つ、ぼんやりと光を放つものが、目の前に残っていた。
そうだ。俺の記憶はいつだって「壊された瞬間」で止まっていた。
でも、それより前──なぜ壊されたのかという経緯は、まるで抜け落ちていた。
──わすれないで。
ずっと付喪神が言っていた「忘れないで」という言葉。
それは、鏡を壊された記憶じゃなくて、壊される前の“真実”を指していたのかもしれない。
狂ってしまったのは、俺の方だったということを。
静かに背中を押された俺は、ゆっくりとその光に近付いて指を伸ばす。
そう言って、いつも無表情の水先が柔らかく笑った。
いつもと違う雰囲気に、なぜだか少し不安になる。
だが、俺が口を開くよりも先に辺りが白に染まった。
気が付けば、いつもの庭に立っていた。
声が聞こえ、振り返る。
そこにいたのは、井戸に腰かけた鏡月だった。
手元を見下ろすと、何かを握っている。
ゆっくりと開くと、そこにあったのはいつも通り鏡の破片だった。
しかし。
いつもの三倍くらいはありそうな、大きな破片だった。
近づいてきて俺の手元を覗き込んだ鏡月は、納得したように頷く。
俺が持っていたのは手鏡だ。
破片を組み合わせれば鏡の部分は形になるかもしれないけれど、肝心のフレームがない。
今回行った時に覚えた違和感。
聴こえない声と、弱弱しいひかり。
もう、付喪神の力が尽きてしまったのだろうか。
井戸に飛び込もうとする俺を止める鏡月の腕を振り払う。
いつもは問答無用で落としてきたくせに、なんでこういう時は止めるんだ。
突然笑い出した鏡月に、開いた口がふさがらない。
今の流れで笑いどころあったか?
咄嗟に、手に持っていた鏡の破片を見る。
鏡月の言葉に、もう一度鏡を見る。
さっきと同じような顔の俺がこちらを見ていた。
脳裏に父さんの表情が浮かぶ。
ずっと鬼のように見えていた顔。
でも今は……悲しそうで、怯えているようにも見えた。
どれが本当の記憶かわからない。
何かがすれ違っているようで心が落ち着かない。
とりあえず、父さんと話さないと。
そう言って駆け出した俺の背中に、鏡月の声が届く。
















編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!