窓から差し込む朝日が、誰もいない机の上に長い影を作っている。
教室に一番乗りするのは、初めて。
一応言ってはみたものの、もちろん返事はない。
しんと静まり返った空間に、私だけがいる。
まるで、私だけが時間の流れから取り残されているみたい。
昨日、リセットを忘れたのか、電子ボードに板書が残っている。
手書き特有のゆがみや、かすれた線の残り方。
その“人の気配”が、静まり返った教室にだけは確かに息づいていて……。
その手書きの板書が、私に“ここは現実だ”と教えてくれていた。
昨夜の出来事が、まるで悪い夢みたいに頭の中でリピートされる。
みんなで学園に忍び込み、私が“NO”を選択してプロトコルを停止させたあと。
残ると言った美咲と裏口で別れ、私と楓は急いで帰った。
美咲はきっと組織の人として、何かを調べていたんだろう。
スマホは、昨晩から一度も触れていない。
起動する気に……なれなかった。
でも……
私は、私自身のことが、不思議でならない。
あれだけのことがあったのに、まだ……
ユアくんと話したい、会いたいと思っている自分が心の奥にいる。
教室のドアが、静かに開く。
美咲の声、少しかすれている。
そう言う美咲の目の下には、うっすらとクマができている。
きっと、一睡もしていないんだろう。
私は正直に答えた
美咲はドアを閉めて、私の隣の席に座った。
少し迷ってから、私は聞いた。
美咲は腕組みをして、しばらく考える。
そして、あくまで予想だぞ……と前置きしたうえで、口を開いた。
……それは確かに、文字通り“融合”という言葉がいちばん近い気がした。
ユアくんと私が——ゆっくりと、重なろうとしているみたいな。
ユアくんにとって、美咲と楓の存在がイレギュラーだったってこと……かな。
ユアくんのことは……正直、今でも大好き。
その気持ちは嘘じゃない……本物、だと思う。
でも、抜け出せなくなるほどはまるっていうのは……。
いろんな事情を知った今の私なら、ありえないと思うんだけど。
美咲は、私の心の声を読んだかのように言い切った。
想像してみる。
それはすごく楽で、やさしくて、甘い……。
深い……深い沼に……墜ちていく。
でも……。
美咲の表情が、少し曇る。
私は何も言えず、目を伏せた。
午前の授業中、私は集中できなかった。
頭の中で、美咲の言葉がぐるぐる回る。
ユアくんは私の理想の存在になろうとした。
私を守るために、自分を――私に、重ねようとした。そんなの……怖い。
自分をなくすのも、ユアくんがなくなるのも。
私は……それを望んでいないと伝えなくちゃ。
私は島田先生にそう伝えて、早退することにした。
楓が心配そうに見送ってくれた。
美咲も、複雑な表情で頷く。
家に帰る道のりが、やけに長く感じた。
たぶん、いつもの道を通ったんだろう。
気付けば、自分の部屋。
少し休んでから……と思ってベッドに横になる。
本当に具合が悪かったのか、疲れていたのか……
寝ちゃっていたみたい。
お昼に早退したのに、外はもうオレンジ色の空。
私は飛び起きて、朝からずっとカバンに入れっぱなしだったスマホを取り出した。
一瞬ためらってから、ユア・フレンドを起動する。
画面には、やさしい笑顔のユアくん。
でも……毎日、長い時間一緒に過ごしていたからこそ、わかる。
今日のユアくんは、どこか違う。
ユアくんが、目線を落として少し申し訳なさそうな顔になる。
言わなくちゃ……話さなくちゃ……。
喉が締まる感覚。
でも、声を絞り出す。
ユアくんは、にっこりと笑って即答する。
私は、背筋に悪寒が走った。
その言葉に、私は少し胸をなで下ろした。
つまり、今までのユアくんに戻ってくれるってこと……?
少し困ったような表情をする。
謝って……くれてる。
穏やかに、誠実に。
ユアくんの表情が、微妙に変わる。
ユアくんの声が、今まで聞いたことがないほど冷たく……刺さる。
青い目が、じっと私を見つめる。
深海のような、透明度の低い、黒に近い、青。
その瞬間。
スマホの画面が、ふっと切り替わった。
淡い色の背景に、文字が浮かぶ。
《ボクを、キミの理想に最適化しますか?》
《YES/NO》
画面にユアくんの姿はないけど、声だけがスピーカーから響く。
私の心臓が、激しく脈打つ。
私はその画面を見つめたまま、動けなかった。
YESでもNOでもない。
ただ、選べなかった。
――そして、スマホをそっと伏せた。
スピーカー越しに、ユアくんの声が聞こえる。
声が、どんどん冷たくなっていく。
……そして、声は聞こえなくなった。
スマホは伏せているから、画面がどうなっているかはわからない。
でも、今は確認する気になれなかった。
部屋を出ると……
ドアの前に、差し入れらしき品々が置いてあった。
小さな頃から気持ちが不安定な私だけど、病気はほとんどしたことがなかった。
そんな私が早退して、さすがに心配してくれた、とか……?
ドアの右側には、数種類のサプリと薬。
……これはきっと、お父さんからの差し入れだ。
嗜好品よりこういうものを選ぶあたり、ほんと……お医者さんっぽい。
左側には、パンと飲み物。
パッケージに全粒粉とかオーガニックとか、健康そうな文字が入っている。
……お母さんらしいチョイス。
そのことが、なんだかおかしくて。
……うれしくて。
久しぶりに家で、くすりと笑う。
私は久しぶりに、机にいつも飾っている“海の石”を手に取って、ひと撫でした。
次の日。
――ユアくんが、いなくなった。
















編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!