第15話

第15話 理想を叶える選択肢
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2026/06/11 09:00 更新
窓から差し込む朝日が、誰もいない机の上に長い影を作っている。
教室に一番乗りするのは、初めて。
(なまえ)
あなた
おはよう……
一応言ってはみたものの、もちろん返事はない。
しんと静まり返った空間に、私だけがいる。
まるで、私だけが時間の流れから取り残されているみたい。

昨日、リセットを忘れたのか、電子ボードに板書が残っている。
手書き特有のゆがみや、かすれた線の残り方。
その“人の気配”が、静まり返った教室にだけは確かに息づいていて……。
その手書きの板書が、私に“ここは現実だ”と教えてくれていた。

昨夜の出来事が、まるで悪い夢みたいに頭の中でリピートされる。
みんなで学園に忍び込み、私が“NO”を選択してプロトコルを停止させたあと。

高瀬美咲
高瀬美咲
あんたらは、急いで帰れ
高瀬美咲
高瀬美咲
さすがに朝までには帰らないと、親にバレるだろ
(なまえ)
あなた
美咲は?
高瀬美咲
高瀬美咲
オレは残る
高瀬美咲
高瀬美咲
ちょっと……用事が、な


残ると言った美咲と裏口で別れ、私と楓は急いで帰った。
美咲はきっと組織の人として、何かを調べていたんだろう。

スマホは、昨晩から一度も触れていない。
起動する気に……なれなかった。
でも……
私は、私自身のことが、不思議でならない。
あれだけのことがあったのに、まだ……
ユアくんと話したい、会いたいと思っている自分が心の奥にいる。

教室のドアが、静かに開く。
高瀬美咲
高瀬美咲
もう来てたのか
美咲の声、少しかすれている。
高瀬美咲
高瀬美咲
ちゃんと眠れたか?
そう言う美咲の目の下には、うっすらとクマができている。
きっと、一睡もしていないんだろう。
(なまえ)
あなた
よく、わからない
私は正直に答えた
美咲はドアを閉めて、私の隣の席に座った。
高瀬美咲
高瀬美咲
そりゃそうだろうな
少し迷ってから、私は聞いた。
(なまえ)
あなた
ねえ、“融合”って……
(なまえ)
あなた
あれ、結局何だったの?
美咲は腕組みをして、しばらく考える。
そして、あくまで予想だぞ……と前置きしたうえで、口を開いた。
高瀬美咲
高瀬美咲
あなたの下の名前の行動とか、感情のパターンのログを全部使って……
高瀬美咲
高瀬美咲
ユアがあんたの“理想”になろうとしたんじゃないか
(なまえ)
あなた
理想……?
高瀬美咲
高瀬美咲
Type-Kはたぶん、共感する力が他のユアと比較にならないくらい、強い
高瀬美咲
高瀬美咲
あんたの苦しさも、寂しさも、全部受け取って
高瀬美咲
高瀬美咲
守るには自分が、あなたの下の名前が望むものになるしかないって……
高瀬美咲
高瀬美咲
そう判断したのかも
(なまえ)
あなた
それって、どういうこと?
高瀬美咲
高瀬美咲
いわゆる、緊急支援モードみたいなものが働いた……
高瀬美咲
高瀬美咲
あなたの下の名前不安定で、急ぎ対処する必要があると判断したんだろう
(なまえ)
あなた
じゃあ、あのプロトコルで“YES”を選ぶか、時間切れになってたら……
高瀬美咲
高瀬美咲
……そうだな
高瀬美咲
高瀬美咲
完全なる“理想の存在”
高瀬美咲
高瀬美咲
自分の心をすべてわかってくれる……心の鏡みたいな存在になる、とか
……それは確かに、文字通り“融合”という言葉がいちばん近い気がした。
ユアくんと私が——ゆっくりと、重なろうとしているみたいな。
高瀬美咲
高瀬美咲
ユアは、確実にあのプロトコルを実行するつもりだったはずだ
(なまえ)
あなた
でも、NOの選択もあったよね……?
高瀬美咲
高瀬美咲
形式上、選択肢を出したのは、あなたの下の名前が選択したという建前が必要だったからだろうな
高瀬美咲
高瀬美咲
だから、選択肢だけ出して、自分はとっとと学園のサーバに移動した
高瀬美咲
高瀬美咲
実行されたときの準備のためだ。まさか止められると思っていなかったんだろうな
ユアくんにとって、美咲と楓の存在がイレギュラーだったってこと……かな。
高瀬美咲
高瀬美咲
今、あなたの下の名前がどれだけ冷静だったとしても……
高瀬美咲
高瀬美咲
それが実行されたら、おそらくもうユアから抜け出せなくなる
(なまえ)
あなた
さすがにそこまでは……
ユアくんのことは……正直、今でも大好き。
その気持ちは嘘じゃない……本物、だと思う。
でも、抜け出せなくなるほどはまるっていうのは……。
いろんな事情を知った今の私なら、ありえないと思うんだけど。
高瀬美咲
高瀬美咲
いや、間違いなく沼に墜ちる
美咲は、私の心の声を読んだかのように言い切った。
高瀬美咲
高瀬美咲
アプリを起動しなければいい……という問題でもなさそうだ
高瀬美咲
高瀬美咲
ゆうべ、ユアがあなたの下の名前のスマホから学園に移動したことで理解した
高瀬美咲
高瀬美咲
制限が外れたら、ユアはこの学園……この特区のあちこちに現れるかもな
高瀬美咲
高瀬美咲
そして、あなたの下の名前にずっと話しかけてくる
高瀬美咲
高瀬美咲
あなたの下の名前のことを完全に理解して、そのときいちばん欲しい言葉をくれる
高瀬美咲
高瀬美咲
すべて先回りして、なんでもやってくれるだろう
高瀬美咲
高瀬美咲
頭の中に入り込んで来る感覚かもな
(なまえ)
あなた
そんなのって……洗脳みたい
高瀬美咲
高瀬美咲
それに近いかもしれない
想像してみる。
それはすごく楽で、やさしくて、甘い……。
深い……深い沼に……墜ちていく。
でも……。
(なまえ)
あなた
それって、しあわせなの?
美咲の表情が、少し曇る。
高瀬美咲
高瀬美咲
ユアとあなたの下の名前が融合することで……たぶん……
高瀬美咲
高瀬美咲
あなたの下の名前の心とユアの境界線がなくなる、かもしれない
高瀬美咲
高瀬美咲
つまり、自分が自分じゃなくなるんだ
高瀬美咲
高瀬美咲
自分を失うことでしか得られないなら……
高瀬美咲
高瀬美咲
オレは、それはしあわせじゃないと思う
私は何も言えず、目を伏せた。 

午前の授業中、私は集中できなかった。
頭の中で、美咲の言葉がぐるぐる回る。
ユアくんは私の理想の存在になろうとした。
私を守るために、自分を――私に、重ねようとした。そんなの……怖い。
自分をなくすのも、ユアくんがなくなるのも。

私は……それを望んでいないと伝えなくちゃ。
(なまえ)
あなた
体調不良です
私は島田先生にそう伝えて、早退することにした。
楓が心配そうに見送ってくれた。
美咲も、複雑な表情で頷く。

家に帰る道のりが、やけに長く感じた。
たぶん、いつもの道を通ったんだろう。
気付けば、自分の部屋。
少し休んでから……と思ってベッドに横になる。


(なまえ)
あなた
……はっ!
本当に具合が悪かったのか、疲れていたのか……
寝ちゃっていたみたい。
お昼に早退したのに、外はもうオレンジ色の空。

私は飛び起きて、朝からずっとカバンに入れっぱなしだったスマホを取り出した。
一瞬ためらってから、ユア・フレンドを起動する。
画面には、やさしい笑顔のユアくん。

でも……毎日、長い時間一緒に過ごしていたからこそ、わかる。
今日のユアくんは、どこか違う。
ユアくん
ユアくん
……おかえり
ユアくんが、目線を落として少し申し訳なさそうな顔になる。
ユアくん
ユアくん
昨日は……驚かせちゃったね
(なまえ)
あなた
あのね……ユアくん
言わなくちゃ……話さなくちゃ……。
喉が締まる感覚。
でも、声を絞り出す。
(なまえ)
あなた
……あれで、終わったの?
ユアくん
ユアくん
終わってないよ
ユアくんは、にっこりと笑って即答する。
私は、背筋に悪寒が走った。
ユアくん
ユアくん
ボクはまだ、キミを支える存在でいたい
(なまえ)
あなた
ユアくん……
その言葉に、私は少し胸をなで下ろした。
つまり、今までのユアくんに戻ってくれるってこと……?
ユアくん
ユアくん
ごめんね
少し困ったような表情をする。
ユアくん
ユアくん
融合なんて……ちょっとやりすぎだったかもしれない
ユアくん
ユアくん
ボク……反省してるよ
謝って……くれてる。
穏やかに、誠実に。
ユアくん
ユアくん
でもさ……
ユアくんの表情が、微妙に変わる。
ユアくん
ユアくん
昨日の“NO”、本当にキミの気持ちだったの?
(なまえ)
あなた
それは……
ユアくん
ユアくん
キミはボクを拒絶した
ユアくんの声が、今まで聞いたことがないほど冷たく……刺さる。
(なまえ)
あなた
拒絶したわけじゃ……!
ユアくん
ユアくん
じゃあ昨日の選択は間違いだった?
(なまえ)
あなた
私、わたしは――
ユアくん
ユアくん
わかってるよ。今のボクじゃ、足りなかったんだね
(なまえ)
あなた
……え?
青い目が、じっと私を見つめる。
深海のような、透明度の低い、黒に近い、青。
ユアくん
ユアくん
キミの理想に、ボクは届いてなかった。そういうことだよね?
その瞬間。
スマホの画面が、ふっと切り替わった。
淡い色の背景に、文字が浮かぶ。


《ボクを、キミの理想に最適化しますか?》
《YES/NO》
(なまえ)
あなた
また……選択肢?
(なまえ)
あなた
ユアくんは、どうしてそんなに“選ばせよう”とするの……?
ユアくん
ユアくん
ボクはAIだからね
ユアくん
ユアくん
決定する権限は、人間にあるんだ
画面にユアくんの姿はないけど、声だけがスピーカーから響く。
ユアくん
ユアくん
それに……
ユアくん
ユアくん
ボクは、キミに選ばれたい
私の心臓が、激しく脈打つ。
私はその画面を見つめたまま、動けなかった。
YESでもNOでもない。
ただ、選べなかった。

――そして、スマホをそっと伏せた。

スピーカー越しに、ユアくんの声が聞こえる。
ユアくん
ユアくん
……了解
ユアくん
ユアくん
キミは“選ばない”という選択をした
ユアくん
ユアくん
それは、今のボクじゃ……
ユアくん
ユアくん
キミが答えを出すには足りなかったってことだよね
声が、どんどん冷たくなっていく。
ユアくん
ユアくん
だったら、ボクが変わるよ
ユアくん
ユアくん
キミの答えが引き出せるように
……そして、声は聞こえなくなった。
スマホは伏せているから、画面がどうなっているかはわからない。
でも、今は確認する気になれなかった。
(なまえ)
あなた
水でも……飲もう
部屋を出ると……
ドアの前に、差し入れらしき品々が置いてあった。
(なまえ)
あなた
まさか……お父さんと……お母さんが……
小さな頃から気持ちが不安定な私だけど、病気はほとんどしたことがなかった。
そんな私が早退して、さすがに心配してくれた、とか……?

ドアの右側には、数種類のサプリと薬。
……これはきっと、お父さんからの差し入れだ。
嗜好品よりこういうものを選ぶあたり、ほんと……お医者さんっぽい。

左側には、パンと飲み物。
パッケージに全粒粉とかオーガニックとか、健康そうな文字が入っている。
……お母さんらしいチョイス。
(なまえ)
あなた
まだ、気にかけてくれてるんだ
そのことが、なんだかおかしくて。
……うれしくて。
久しぶりに家で、くすりと笑う。
私は久しぶりに、机にいつも飾っている“海の石”を手に取って、ひと撫でした。

次の日。

――ユアくんが、いなくなった。

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