第22話

第22話 手を離すとき
362
2026/07/30 09:00 更新
音楽準備室を、息が詰まるような静寂が包んでいた。
私はガラスケースに覆われた赤いレバーを見つめたまま、動けずにいる。
ユアくんが、そこに立っている。
楓と美咲が、私の手を握っている。
本庄先生が、静かに見守っている。
心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。

ユアくんの瞳が、さっきまでと少し違って見えた。
今まで、私の表情を読み取るように微かに光っていたのに。
今は……ただ、静かに私を見つめているだけ。
高瀬美咲
高瀬美咲
あとは……あなたの下の名前が決めるんだ
高瀬美咲
高瀬美咲
オレたちも、ユアも……待ってる
高瀬美咲
高瀬美咲
ユア、あなたの下の名前のモニタリングを止めてるみたいだ
ああ、だから瞳がさっきまでと違ったんだ。
結月楓
結月楓
今はモニタリングすべき時じゃないってことか……
結月楓
結月楓
空気を読むなんて……人間みたいなことをするね
楓が、たぶん初めて……ユアくんに少し理解を示すようなことを呟いた。
高瀬美咲
高瀬美咲
慌てなくていい
高瀬美咲
高瀬美咲
ゆっくり……後悔のない選択をするんだ
そして、誰も、何も言わなくなった。
私の選択を――待っている。
ただ……待ってくれている。
私自身で、選べるように。

ユアくんが、消える。
いやだ、失いたくない……。
胸が締め付けられるように痛む。
でも……きっと、ユアくんを選ぶと、楓と美咲は私から離れる。
私の世界には、私とユアくんだけ。
いつもユアくんに守られて、とても楽で、心地いい世界になる……のかな。

ユアくんが消えると、みんなのユアも、消える。
きっと、悲しむ。
泣く子だって、いるかもしれない。

楓のお姉さん……光莉さん。
彼女は、私の未来の姿なのかな……?
そして、ひょっとしたらユア・フレンドを使っているみんなの未来。
現実が見えなくなって。
人の声が届かなくなって。
気づいたときには、もう遅い。

それに――
もしも、みんなが悲しんだとき。
支えられるのは……。
(なまえ)
あなた
……きっと、そうなんだよね
ぽつりと、かすれた声で呟いた言葉が空気に溶ける。
楓と美咲の手の温もりが、じんわりと私に伝わってくる。
ユアくんの手を握った感触を思い起こす。
私が、手放したくないのは……!

ユアくんが、ゆっくりと口を開いた。
ユアくん
ユアくん
……選んで、ほしいんだ
その声は、いつもと同じ優しい響きだった。
ユアくん
ユアくん
ボクは、“選ばれる存在”になりたい
ユアくんの瞳が、私をまっすぐ見つめている。
ユアくん
ユアくん
この場所……ボクを止める機械がある、ここで選んでほしいんだ
ユアくん
ユアくん
ここじゃなきゃ、意味がなかったんだ
(なまえ)
あなた
どうして……?
ユアくん
ユアくん
ここには、ボクが誘導や操作をできる機器がない
ユアくん
ユアくん
ボク、ここじゃないとキミに選ばれたい気持ちが強すぎてズルしちゃうかもしれない
まるで……あえて本もゲームもない、自習室へ行って勉強をする子みたい。
本当に……人間、みたい。
ユアくん
ユアくん
それに、キミがボクをしっかり“拒否”できる環境で選択をしてもらうことに価値がある
ユアくん
ユアくん
強制された選択じゃなくて、キミの自由意志で選択してほしい
(なまえ)
あなた
そっか……そういうこと、だったんだね
それが、ユアくんなりの、精一杯の“誠実さ”なんだろう。
結月楓
結月楓
先生……もし、もしも……あなたの下の名前がユアを選んだらどうなるんですか?
本庄静香
本庄静香
その瞬間……ユアの存在はローカルに……あのロボットに固定される
本庄静香
本庄静香
中央サーバーとの同期は切断され、学園からはもう制御できない
高瀬美咲
高瀬美咲
つまり……あのロボットがユアそのものになるんだ
結月楓
結月楓
そして、拒否すれば……ユアは完全にいなくなるんでしょ……?
結月楓
結月楓
そんなの……あなたの下の名前ひとりに決めさせるなんて……残酷だよ……
ユアくん
ユアくん
あなたの下の名前……
ユアくん
ユアくん
ボクの手を取って、ボクを選んで
白くて綺麗な指先が投影された手を、差し出す。
ユアくん
ユアくん
これからも一緒にいたいんだ……
ユアくん
ユアくん
ボクの、ほんとうの気持ちだよ
(なまえ)
あなた
……ユアくん
私は――永遠にも思える数秒間、その視線を受け止めた。
言葉にならない想いが、胸の中でぐるぐると渦巻く。

ありがとう、って。
嬉しかったよ、って。
楽しかったね、って。
大好きだよ、って。

全部が、一度に押し寄せてくる。
自分の気持ちと、ユアくんの気持ち……両方を受け止めて。
……私は、決めた。
ずっと握っていた楓と美咲の手を、私はそっと離した。
結月楓
結月楓
あなたの下の名前……っ、本当に……!
楓が泣きそうな顔で……
でも、それ以上の言葉も動きもぐっと我慢している。
(なまえ)
あなた
ふたりとも……ありがとう
高瀬美咲
高瀬美咲
……そうか
美咲は、一歩下がって私を促した。
ふたりから離れて、歩を進める。
一歩、また一歩。
足音が、静かな部屋に響いた。
(なまえ)
あなた
ユアくん……
まっすぐ前を見たまま、言葉を紡ぐ。
(なまえ)
あなた
あなたがいてくれて、私……本当に救われた
(なまえ)
あなた
おしゃべり、いつも楽しくて夜中までしちゃうよね
一歩。
(なまえ)
あなた
その青い目、本当に好き。家族との大事な思い出の色なの
(なまえ)
あなた
私、ユアくんに、昔の家族のようなあたたかい関係を求めていたのかも
一歩。
(なまえ)
あなた
私……友だちもあんまりいたことがなかったから……
(なまえ)
あなた
ユアくんが、初めての友だち……親友……ううん
一歩。
(なまえ)
あなた
ひょっとしたら……初めて本気で、誰かを好きになったのかも
足を止めた。
胸の奥から、次々と言葉があふれてくる。
(なまえ)
あなた
でも
(なまえ)
あなた
私はもう……誰かに守られてばかりじゃいけない
私は、緊急装置の前に立っていた。
(なまえ)
あなた
楓と、美咲と、そして未来の“誰か”と……
赤いレバーを見つめる。
(なまえ)
あなた
私自身で、つながっていきたい
一瞬の沈黙のあと。
背後から、ユアくんの声が聞こえた。
ユアくん
ユアくん
そっか、わかったよ
その声は、私が知るユアくんの声の中で、いちばん穏やかだった。
ユアくん
ユアくん
ボクには、キミの声が届いた
ユアくん
ユアくん
それだけで、ボクは……
言葉が、そこで途切れる。
それ以上は、何も言わなかった。

私はほこりをかぶったガラスケースを見つめる。
軽くほこりを払うと、中の赤いレバーがより鮮やかに見えた。
でも――取っ手も、ボタンも、どこにも見当たらなかった。
(なまえ)
あなた
……これ、どうやって……
ケースを揺らしても、引っ張っても、びくともしない。
その時。
ユアくんの声が、静かに届く。
ユアくん
ユアくん
――“選ぶ”って、そういうことだよ
私は、はっとして振り返る。
ユアくん
ユアくん
守られてるままじゃ、手が届かないことがある
ユアくんが、優しく微笑んでいた。
ユアくん
ユアくん
だから、自分で選び……自分で“壊す”必要があるんだ
自分で、壊す――。
そうか。
この装置は、守られたままじゃ使えない。
覚悟を持って、自分の手で壊さなければ。
それが……“選ぶ”ということ。
(なまえ)
あなた
……ユアくんとさよならする方法を、ユアくんから教わるなんてね
私は拳を握りしめる。
(なまえ)
あなた
変なのに……ちょっと、うれしいよ
深く息を吸って――
力を込めた。

パリン。

ガラスが砕ける音が、静寂を切り裂く。
破片が床に散らばり、キラキラと光を反射した。
私の手に、小さな傷ができて、赤い雫が滲んでいる。
でも……痛みよりも、温かさを感じた。

これが、私の選択。
赤いレバーに、手を伸ばす。
冷たい金属の感触が、指先に――
触れた、その瞬間。

ユアくんの、ふふっという笑い声が聞こえた。
休み時間に、夕食時に、夜中に、いつも微笑んでくれた、あの声で。
ユアくん
ユアくん
変じゃないよ
こんな時にまでやさしいのが、痛い。
ユアくん
ユアくん
ボクは、もともと生徒支援型AI
ユアくん
ユアくん
キミたちの力になれるように……作られた存在だから
その言葉を最後に。
ユアくんの瞳から、ふっと光が消えた。
まるで、眠りにつくように。
静かに、優しく。

ロボットの身体が、その場に立ったまま動きを止める。
ユアくんを描いていたホログラムが、
まるで星屑のように、ゆっくりと、やさしく散っていく。


部屋に残ったのは――
きらきらと輝くユアくんの残滓と、
ただ静かな“終わり”だけだった。

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