私の提案に、賢人君は珍しく目を大きく見開いた。
賢人君は、最後のひとかけらのレーズンパンをゆっくりと味わったあと、やはりゆっくりとコーヒーを飲んだ。
お説教のひとつもされそうな雰囲気がただよっている……と思っていたんだけど。
賢人君が、満足そうにひとつうなずく。
視界の端で、マスターも小さくうなずいていた。
クラスメイトのなおは、現実から異世界に飛ばされた女の子が、あっちの世界の貴族や王子様と恋愛するゲームにとにかくハマっている。
あらかじめ自分の苗字と名前を設定しておくと、序盤は苗字、付き合い始めると名前で呼んでもらえるのだとか。
「最初に名前で呼ばれる瞬間がたまらない!」って目をキラキラ……というよりギラギラさせて言ってたっけ。
私が考えるツムギちゃんの物語に、親友ツカサちゃんの闇落ちは絶対に必要だと思った。
まだ作家を名乗れない初心者だけど、譲れないものはあってもいいんじゃないかな。
一瞬、賢人君が微笑んだような気がした。
そういえば……私と賢人君との関係って、何かアップデートしてるのかな?
ずーっと“お前”って呼ばれるし、ずーっとぶっきらぼうだし、ずーっとキツイこと言うし、なんだかぜんっぜん変化がない気がする……。
……どうして私、ちょっと残念に思ってるんだろう。
モヤモヤするくらいなら、直球で聞いてみようかな。
そっぽを向いている賢人君の表情は見えない。
そのとき、カランと出入り口ドアについているベルが鳴った。
来店したサトル君は、カウンターでマスターから袋を受け取っている。
以前も、このお店のパンを買いに来てたっけ。
気に入って、リピートしてるのかもしれない。
賢人君は小さな声でそう言ったきり、黙ってしまった。
そういえば、賢人君は以前パンを買いに来たサトル君に会ったことがあったはず。
そのとき……サトル君のことをどんな風に紹介したっけ?
……よく思い出せないけど、なんだかちょっとくすぐったいというか、恥ずかしい感じがするのはなんでだろう。
しばらくサトル君との会話に夢中になっていると、背後から黒いオーラを感じる。
まるで「ゴゴゴ……」という効果音でも聞こえてきそうな雰囲気で、賢人君が立っていた。
次の瞬間、賢人君は私の手を握った。
店のドアへと、私を引きずるようにして歩いていく。
混乱する私は、とりあえずサトル君とマスターに挨拶をした。
おそらく、ほかに考えることがあったんだろうけど、思考が停止している。
賢人君は、周囲の人の目を気にすることなく、私を本屋さんまで引きずっていったのだった。
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夜。布団に入ると魔法少女ツムギちゃんが、ぽんと頭の中に現れた。
私がそう言うと、ツムギちゃんはクスクスと笑った。
深刻な相談だったのに、どうして笑われちゃうんだろう。
いたずらっぽい表情のツムギちゃん。
ツムギちゃんは答えず、おやすみなさいと言い残してふわりと消えた。
編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。