第20話

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2022/10/30 15:45

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 「……え?」

 顔をあげると、そこには拓海がいた。

 「どうしてこんなとこに?」
 「なんでだろうね? 運命かな?」

 なんて拓海は照れたような笑いを口元に浮かべた。今日も彼は黒いスニーカーを履いている。

 「何処か行くんですか?」

 と雛子は拓海に気づかれないように涙を拳で拭い取った。ぱっぱっとスカートをはたいて立ち上がる。

 「うん。ニコちゃんの行くとこと同じところだよ」
 「同じ?」
 「1人でどうにもならないなら、2人でどうにかすればいい。ってニコちゃんが言ったんだよ」




 「はい」と拓海にヘルメットを差し出されて唖然とした。すでに拓海は黒塗りの大きなバイクにまたがっている。

 「おじさん、免許持ってるんですか?」
 「バイク乗る役が来た時に取ったんだよねえ」
 「……それってペーパー」
 「いいから乗る」

 雛子は渋々ヘルメットを被る。

 「着くまで、これでも聞いてなさい」

と、耳の中に、ころんと丸いワイヤレスのイヤフォンを押し込まれた。バイクにまたがると、拓海がエンジンをかけた。ブオンと爆音がイヤフォン越しにも響いてくる。イヤフォンの中からフルートの柔らかな音色が聞こえてきた。
 
 以前、日生椿のボイスレコーダーから流れてきた曲だ。その優しい音色の中に、木の葉がそよぎ、暖かな風が流れるのを感じる。瞼を閉じると、あの丘の上の公園にいるかのような気持ちになった。
 彼女の奏でる曲を聴きながら、ベンチの上でまどろむ拓海の姿が浮かぶ。

 なんて優しい時間なんだろう。
 ここだけは、時の流れがゆっくりに感じる。
 ずっとここにいたい。
 そう思うほどに、幸福な色に満ち溢れている。

 永遠に日生椿と拓海がいる幸福な世界へと雛子は入ることはできない。
 そこには透明な膜が貼られてて、先に進むことは許されないのだ。
 だから雛子は透明なフィルムの向こう側で息をする。
 大人になった末吉拓海の隣に並んで、痛みと切なさでおかしくなりそうな場所で息をする。

 「着いたよ」と拓海に声をかけられて、雛子はハッと瞼を開いた。
 試験会場の立て看板が目に入る。
 
 「ありがとうございました」
 
 スカートの裾を気にしながら、バイクから降りた。
 受験会場へと向かおうとすると、「ニコちゃん!」と拓海が声を張り上げた。振り返ると、拓海がニヤッと口元を緩めて笑っている。

 「僕、王子様みたいだったでしょ?」

 拓海の笑顔に触れると、心臓に擦れて張り付いていた毛玉みたいなものが、ポンと飛び出して消えた気がした。





 季節はもう冬だった。
 そろそろコートを着ないと夜の外出は難しい。レイヤーでいっぱいになった拓海との写真のフォルダーをクラウドに移し、スマホの中から“拓海”を空にした。
 雛子は最後の仕上げに取り掛かった。

 「日曜日、18時に駅前で待ってます」

 とショートメッセージを拓海へ送る。





 ポツリポツリと空から雫が落ちてきた。折りたたみ傘を広げ、冷たい雨を凌いだ。日生椿がこの世を去った日は、雪が降り続いていたという。そんな中、彼女は拓海を待ち続け、そして事故に巻き込まれて亡くなった。
 彼女が亡くなった場所は、2番バス乗り場に近いロータリーで、ちょうどガードレールが途切れた場所に立っていたそうだ。そこから5メーターほど引きずられ、駅の改札へと向かう階段の上り口の壁に衝突し、トラックに挟まれた状態で彼女の遺体は発見された。夥しい血がアスファルトの上に流れ、ガードレールも壁も溶けた飴細工みたいに、ぐしゃぐしゃに曲がった。

 でも今は、そんな面影はどこにもない。
 あの事故を目撃した人たちの記憶にしか、あの事故の光景は刻まれていない。


 もうすぐ約束の18時だった。

 「おじさん、遅れてくるのかな?」

 傘で遮られた視界の隅で、拓海の姿を探した。日生椿のタイムカプセルを開けた時から、時が流れ出したかのように、拓海は着物を着ることをやめた。髪を整え髭を整え、身なりも気にするようになった。きっと今は昼寝もしていないんだろう。
 それは全て日生椿のタイムカプセルのおかげだ。黒川雛子のおかげじゃない。

 たったったと軽快なスニーカー音が聞こえてきた。
 顔をあげると、傘も差さずに走ってくる拓海がいた。

 「ニコちゃん!」

 彼が名を呼んだが、雛子はその場から動かなかった。彼が駆け寄るまで、その姿を目に焼き付けた。はあはあ、と息を切らせて、拓海が傘の中に入ってきた。黒のベースボールキャップに溜まった雨水が流れ落ちる。

 「こんな雨のなか、こんなとこに立ってたら、風邪引くよ」

 ちょっと怒った調子で拓海が言う。

 「ここじゃなくちゃ。ここでおじさんを待ってなくちゃ、意味がなかったんです」
 「……え?」
 「10年前、日生椿が亡くなった日、おじさんはここまで来れなかったから」
 「……うん」

 拓海は全てを理解したように一つ頷く。ベースボールハットのツバに隠れて彼の顔が見えなかった。

 「呼吸する方法、忘れてないですか?」
 「うん……大丈夫」

 拓海へとスマホを向けてシャッターを切って、最後のレイヤーをかけた。”拓海”を写真フォルダーがあるクラウドへと移動させる。再びスマホの中から拓海が消えた。

 「今撮ったのは、おじさんのタイムカプセルの中になかったものです。けど、箱を開けるために必要だと思ったので撮りました」
 「……うん」
 「はい」と、雛子はタイムカプセルの箱の入った紙袋を拓海へと差し出した。
 「あと」と、拓海の手にノートの切れ端を握らせた。雨で湿った手のひらのせいで、紙の切れ端が水を吸って色を変える。

 「これまで撮影した写真にアクセスできるアドレスとパスワードです。息の仕方を忘れたら眺めるなりしてください」
 「……うん」
 「それと、私ごとですが、境川大学に合格しました。来年の春には晴れてリア充まっしぐらな女子大生です」

 しんみりした別れは嫌だった。ここでさよならをする。と決めたのだ。笑って終わりにしたい。

 「そっか、おめでとう」
 「それもこれも、バイクに乗る役を引きこもりのおじさんにキャスティングした偉いおじさんのお陰ですね」
 「あ、僕は褒めてくれないんだ」

 と 拓海がツッコミを入れた。互いの笑い声が雨音の中に奏でられる。

「では、タイムカプセルも渡しましたし。私の役目は終わりましたので、失礼します」

 と拓海に向かって、軽く頭を下げた。踵を返そうとすると、雛子の傘の柄を、拓海がぐっと掴んだ。拓海の顔が近づき、雛子の瞳の奥をじっと見つめる。何を言われるのかと身構えていると、拓海の瞳が苦しげに細められた。

 「一緒に開けてくれないんだね」

 寂しげな声の調子に、つい喉の奥にまで出かかった言葉をぐっと呑み込んだ。

 拓海のタイムカプセルを開けるとき、心臓が止まるのは拓海じゃなくて、雛子かもしれないと思うほどに、拓海と日生椿の世界に近づいてしまった。
 
 2人の思い出を追いかけるうちに、いつしか拓海に恋してた。
 これ以上一緒にいれば、きっと告げてしまう。
 失敗しかない無謀な試験にチャレンジしてしまう。
 バラバラに壊れてしまう。……私の初恋が。

 だから……拓海のタイムカプセルを、一緒には開けられない。

 「おじさんが彼女の写真見てデレてるの見せられるとか、非リアにとっては拷問でしかないです。1人で思う存分、堪能してください」

 無理やり押し出したセリフを、拓海は「わかった」と言って、雛子の腕から手を離した。

 「ニコちゃん。……今まで、ありがと」

 微笑んだ拓海の瞳の中に映るのは、唇を噛みしめて強がった笑みを浮かべる雛子だった。

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