第19話

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2022/10/30 12:29

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 ——拓海の掌は、大きくてとてもあたたかい。

 指先が触れる感触がくすぐったくて、軽く目を伏せる。一瞬、消えた視界の端で、彼の唇の形を捉えてしまった。色素の薄い唇はほんの少し開いていて、白い歯とピンク色の舌先が濡れている。

 雛子はとうとう我慢ができずにパッと顔を背けた。と同時にガチャッと金属の音が扉の外でした。気づくと地上まで数メートルの高さだった。

 「ね、案外、平気だったでしょ?」

 と、地上の素晴らしさをしみじみ噛み締めている雛子へと、拓海が満足げに言った。

 「全然、平気だった……です」

 っぷ。と拓海が吹き出して笑った。

 「な、なんですか?」
 「たまーに敬語が崩れて、いつものニコちゃんに戻るなーって。なんか、ちょっと距離感縮んだ気がして、おじさん嬉しいです」
 「……さっきまで距離感バグってた人がいうかな……」

 と、拓海に聞こえないようにボソリとこぼす。

 「ん? なんかディスられた?」
 「いいえ? 別になんでもありません。さ、ちゃっちゃと回りましょ! 次の場所はー」
 
 と、拓海の腕を掴んで次の場所へと歩き出した。





 自宅で母の作った夕食を食べる。
 思えば拓海が帰宅時間を気にして早めに遊園地を出たから、彼も夕食を食べていない。少しぐらい遅くなってもいいから、せめて一緒に何か食べてから園を出ればよかったな。などと雛子は考えた。今頃、拓海はぼっちでデリバリーピザをパクついていないだろうか。

 ショートメッセージで、拓海へ[夕食食べましたか?]と送ってみる。少し遅れて、[駅前で牛丼食った]と返ってきた。おしゃれな格好をした拓海がファストフード店で丼をかきこんでいる姿を想像してふふっと笑ってしまう。母に気づかれる前に、皿を片付けて自室へと戻った。

 ベッドの上で再びスマホを開く。”拓海”のフォルダーに入った、拓海と撮った写真を眺める。どれも上書きするために同じ場所を探して撮影したものだ。それは謎解きのゲームをするようで楽しかった。拓海には全部コンプリートできたといったが、本当はもう一枚、重ねなければならないレイヤーがあった。きっとそれは、黒川雛子では重ねられないレイヤーで、日生椿との特別すぎる思い出の写真だ。

 スマホをスクロールして、今日ではない日付の画像をまとめたファイルを開く。そこにある一枚の写真。拓海の首に両腕を回して、顔を寄せ彼の頬にキスをする日生椿が画面の中にいる。

「キスとか……、このリア充め」

 それはいくらなんでもレイヤーはかけられない。きっとレイヤーをいくらかけても上に上に浮き上がってくる。この先もずっとピンで縫い止められたみたいに、その場に在り続けるのだ。
 末吉拓海と日生椿の思い出として、永遠に。

 「ああもう、なんでこんなにモヤモヤしなくちゃいけないの!」

 と雛子は頭を思い切り振って、妄想を両手でパタパタとかき消した。





 雛子はハンドミキサーで生クリームを泡立てながら拓海へと、

 「来週の日曜日は受験があるので来れません」と告げる。

 ここずっと毎週日曜日は図書館に行くと言って家を出ては、拓海の家に入り浸っていた。日生椿との思い出のレイヤーをかけるためでもあるが、ここで拓海と過ごす時間が心地いいというのもある。

 「もう受験か、早いね」
 「私は推薦入試組なので、遅くても12月には進学先が決まるんです」
 「え、じゃあ遅刻欠席ゼロなの?」
 「当然です」
 「うひゃー。真面目ちゃんだー」
 
 とタルト生地にアプリコットジャムを塗りながら、拓海が驚きの声を上げた。

 「おじさんは、どれだけダメな高校生活送ってたんですか」
 「面目ないです……」
 
 としょげながら、ジャムを塗り終えたタルト生地をトレイの上に置いた。雛子の方もボウルの中の生クリームが徐々に流線を描き出した。

 「境川大学かぁ。受かるといいね」
 「正直、また受験日当日にトラブらないか心配してるんです。今まで呪いかって思うほどにことごとく失敗してきてるので」

 試験は何度も加賀美と練習を重ねているので本番で失敗することはまずないはずだ。ただ、また神様に意地悪されないかが心配だった。

 「何が起きても対応できるように1時間前には家を出ますし、受験会場までのルートも完璧です。今度こそ絶対にリア充な大学生活を送ってみせるんです!」

 タルト生地にカスタードクリームと生クリームをたっぷりと流し込んで、その上にスライスしたキウイやイチゴ、パイナップル、リンゴやブルーベリー、などのフルーツを山のように乗せる。
 完成したところで、スマホを掴んだ。
 お菓子作りをする拓海と日生椿の写真の上に、おじさんになった拓海と雛子の写真が上書きされる。

 「よし、よく撮れてる!」
 「もう食べていい?」

 待ちきれないといった調子で拓海がフルーツタルトの乗った盆を見つめていた。

 「食べてよし!」

 というと拓海は「わふっ」と犬のように一つ吠えて、盆を掲げて踊るようにキッチンから出ていった。

 「彼女とケーキ作りとか、どんだけリアなんですか、おじさんは」

 引き出しの中からフォークを2本とケーキ用ナイフを取り出した。

 もう残すところ重ねられるレイヤーはわずかだ。全てが終わったら、その時こそ、拓海はタイムカプセルを開けられるはず。もし失敗したとしても、もう雛子にできることは何もない。


 ——タイムカプセルが開いた後、私たちはどうなるんだろう。雛子はそんなことを考えながら、キッチンの扉を閉めた。







 黒川雛子の受験には呪いがかけられているらしい。


 受験先へと向かう乗り換えの駅で、それは起きた。

 「……嘘でしょ?」

 駅の改札の前には、人だかりができていた。皆が電光掲示板に表示される赤い文字を追いかけている。

 「——神石井駅と東神石井駅間の線路付近の民家で火災が発生し全線運行を見合わせています」

 何度も何度もループするアナウンス。

 「六鷹方面へと向かわれるお客様は臨時バスが運行しております」

 だがバス乗り場も長蛇の列だ。

 「……どうしよう。遅刻したら」

 教師4人が囲む中、狭い保健室でテストを受けた時の感情がフラッシュバックした。「うっ」と、酸っぱい胃液が込み上げて、背を丸める。肩に誰かがぶつかり、強く舌打ちをされた。人混みの中で、人々の足に潰されてゆくタイムカプセルが目に浮かぶ。指先が冷たくなり、頭の中で血液がザアザアとスコールのように降り注ぐ音がする。

 「もう、だめだ……やっぱり、ダメなんだ……」

 どうしようもない絶望感の中、涙が溢れでた。鞄を抱きしめてコンクリートの地面の上へ、ペタンと尻をつけた。背中に誰かがぶつかって、冷たい駅舎の床に手をついた。涙がぽたりぽたりと床に落ちては跳ねる。
 
 悔しい……。なんでどうして肝心な時に、うまくいかないんだろう。
 毎日、真面目に生きてるのに、なんで神様は味方してくれないんだろう。
 
 絶望の底で、不意に雛子の肩に誰かの手が触れた。




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