飲み会帰りの最終列車。
座席でスマートフォンをいじっていた私の右肩に、ずしり、と重みがのしかかる。
ちらりと視線をずらすと、隣に座っていた青年が私に頭を預け、静かに寝息を立てていた。
自分の下車駅は終点だから良いものの、最終列車で眠りこけてしまうのはまずいんじゃないだろうか。
そう思って身体をわずかにずらしてみたが、彼が目を覚ます気配はなかった。
起きないのを良いことに、ついつい観察してしまう。
白い肌に、マスカラを施したんじゃないかと思えるくらいに長く伸びた睫毛。
パーマがかかった髪の毛は、思わず触れたくなってしまうほどにふわふわだった。
その寝顔は余りにも気持ち良さそうで――
起こしてしまうのが、なんだか申し訳なくなって来る。
私は小さくため息をつくと、再び視線をスマートフォンへ戻すのだった。
* * *
『間もなく○○駅、終点に到着します』
『お忘れ物がないようご注意ください』
電車が終点へ到着しても、彼はぐっすりと眠っていた。
そのまま降りてしまおうかとも思ったけれど。
見捨ててしまうのは少し後ろめたく感じて、私は思い切って彼の肩を揺さぶった。
オーバーサイズのセーターから覗く指先で瞳をこすりつつ、青年は目を覚ます。
車両に客が残っていないか確認しに来た駅員が、困ったような表情でこちらを見ている。
「とりあえず降りましょう」と彼を立たせ、私達は電車から降りた。
足元はしっかりしているから、酔って眠ってしまった訳ではないらしい。
欠伸をしながら、彼はのんびりと呟いた。
マイペースを極める発言に困惑する。
こんなふわふわした青年が一人で野宿をするなど危な過ぎて言語道断だ。
私の言葉を遮り、ホームで立ち止まった彼は眠そうな瞳をこちらへ向けた。
* * *
出会ったばかりの男性を。
自分の家に入れてしまった。
ぐぬぬ、と頭を抱える私をよそに、自らをネロリと名乗った青年は「かわいー」とベッドの上にある羊型のクッションと戯れている。
童顔なせいか見た目は高校生くらいに見えたが――
実際に話を聞いてみると、彼は小説家として既に社会で活躍しているらしい。
クッションを抱えたまま、ネロリは私の隣に近寄る。
ほんのりと、花のような柔らかな香りが鼻をかすめる。
蜂蜜のような澄んだ色の瞳で見つめられ、じり、とベッドサイドに座っていた私はわずかに後ずさった。
突然投げかけられる、鋭い言葉。
見事に意表をつかれた私は、ぎくりと身体を強張らせた。
明らかに動揺する私を前に、「僕、推理は得意だよ」とネロリは穏やかに微笑んだ。
後ろめたさが暗雲のように心の中を覆い、咄嗟に視線を背ける。
少し言い過ぎたかと反省したものの。
ネロリはのほほんと微笑んだままだ。
返事に窮する私を前に、彼は「でもね」と白い手を伸ばす。
指先で私の目の下をつつ、となぞり、彼は小さな声で囁く。
ゼラニウムって誰だろう。
呑気な問いは、柔らかい蜂蜜色の瞳の奥に宿る光によって牽制される。
降参と言わんばかりに両手を上げ、私は彼に打ち明けた。
これが正解じゃないことは心得ているつもりだ。
それを証明するかのように、私の声は段々と小さくしぼんで行く。
静かに聞いていたネロリが、音もなく立ち上がる。
そしてベッドの上へこてんと転がると、当たり前のように私の布団にくるまった。
そう言って、「はい、どーぞ」と彼は両手を広げた。
唖然とする私を前に、ネロリは「ほら。おいで」とにっこりと微笑む。
微妙に噛み合わない会話に、張りつめていた肩の力が抜ける。
ここまでマイペースだと、いちいち反応するのが馬鹿みたいだ。
観念したように、私は思い切って布団に入った。
ネロリは優しく、けれど男の人にしか出せない力で私を抱きしめる。
抱きしめられることによって急に上がった心拍数は、全身から伝わる彼の温もりを感じるうちに、徐々に落ち着きを取り戻して行く。
さっきお風呂は貸したけど、こんな香りの石鹸はバスルームに置いていない。
寂しさと空白を埋めるような甘い香りに身を委ねるうちに、段々と瞳が重くなって行った。
うとうととする私を抱きしめたまま、彼は優しく私の頭を撫でた。
穏やかな声に導かれるように、私は静かに意識を手放した。
* * *
カーテンの隙間から差し込む朝日に反応し、ゆっくりと目を開く。
ぼんやりした頭で昨晩の不思議な出来事を思い出し、顔を横に向けるものの。
隣で横になっていたはずのネロリは、魔法のように忽然と消えていた。
そう思ったのも束の間ーー
枕元に、かわいらしい布製のサシェが置かれていることに気付いた。
口元を蜂蜜色のリボンで結ばれた、袋型のそれを私は両手で包み込み、そっと鼻先へ近付ける。
だって、一人ぼっちじゃないから。
ふわりと漂う優しく甘い香りに誓いつつ、私はそっとサシェを胸に抱いた。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!