第7話

ネロリ「夜が怖くて眠れない羊さんへ」
31
2019/12/30 04:31
 飲み会帰りの最終列車。
 座席でスマートフォンをいじっていた私の右肩に、ずしり、と重みがのしかかる。
私
(……?)
 ちらりと視線をずらすと、隣に座っていた青年が私に頭を預け、静かに寝息を立てていた。
私
(……うわ、熟睡してる)
 自分の下車駅は終点だから良いものの、最終列車で眠りこけてしまうのはまずいんじゃないだろうか。
 そう思って身体をわずかにずらしてみたが、彼が目を覚ます気配はなかった。
私
(綺麗な顔だな……)
 起きないのを良いことに、ついつい観察してしまう。
 白い肌に、マスカラを施したんじゃないかと思えるくらいに長く伸びた睫毛。
 パーマがかかった髪の毛は、思わず触れたくなってしまうほどにふわふわだった。


 その寝顔は余りにも気持ち良さそうで――
 起こしてしまうのが、なんだか申し訳なくなって来る。
私
(……ま、いっか)
 私は小さくため息をつくと、再び視線をスマートフォンへ戻すのだった。



 *   *   *



『間もなく○○駅、終点に到着します』
『お忘れ物がないようご注意ください』

 電車が終点へ到着しても、彼はぐっすりと眠っていた。

私
……
 そのまま降りてしまおうかとも思ったけれど。
 見捨ててしまうのは少し後ろめたく感じて、私は思い切って彼の肩を揺さぶった。
私
すいません、終点ですよ
ネロリ
ネロリ
……
ネロリ
ネロリ
んぁ……?
 オーバーサイズのセーターから覗く指先で瞳をこすりつつ、青年は目を覚ます。
ネロリ
ネロリ
……ここ、どこー?
私
終点です
ネロリ
ネロリ
……
私
……
ネロリ
ネロリ
……乗り過ごしちゃった
私
やっぱり!!
 車両に客が残っていないか確認しに来た駅員が、困ったような表情でこちらを見ている。
 「とりあえず降りましょう」と彼を立たせ、私達は電車から降りた。
ネロリ
ネロリ
どうしよー。またラベンダーに怒られちゃう
 足元はしっかりしているから、酔って眠ってしまった訳ではないらしい。
 欠伸をしながら、彼はのんびりと呟いた。
ネロリ
ネロリ
しょうがないから今夜は公園のベンチで過ごそっかなあ
私
ええ……?
 マイペースを極める発言に困惑する。
 こんなふわふわした青年が一人で野宿をするなど危な過ぎて言語道断だ。
私
(と言うか、絶対風邪引く!)
私
そんなの駄目ですよ
私
スマホ貸しますから家の方に連絡するか、駅前でタクシーを――
ネロリ
ネロリ
んー、じゃあ……
 私の言葉を遮り、ホームで立ち止まった彼は眠そうな瞳をこちらへ向けた。
ネロリ
ネロリ
きみの家に泊めてくれる?



 *   *   *



 出会ったばかりの男性を。
 自分の家に入れてしまった。
私
(人生最大の失態……!!)
 ぐぬぬ、と頭を抱える私をよそに、自らをネロリと名乗った青年は「かわいー」とベッドの上にある羊型のクッションと戯れている。
私
あの、本当に家の人には連絡しなくて良いんですか?
ネロリ
ネロリ
うん。ぼくが迷子になるのは日常茶飯事だからね
 童顔なせいか見た目は高校生くらいに見えたが――
 実際に話を聞いてみると、彼は小説家として既に社会で活躍しているらしい。
ネロリ
ネロリ
今日は出版社に用があって出かけてたんだけどね
ネロリ
ネロリ
普段は屋敷にいることが多いから、たまに外に出ると道が分からなくなっちゃうんだ
ネロリ
ネロリ
それに、歩き回るとすぐ眠くなっちゃうし……
 クッションを抱えたまま、ネロリは私の隣に近寄る。
ネロリ
ネロリ
そうだ、せっかくだしきみの話も聞かせて?
 ほんのりと、花のような柔らかな香りが鼻をかすめる。
 蜂蜜のような澄んだ色の瞳で見つめられ、じり、とベッドサイドに座っていた私はわずかに後ずさった。
私
べ、別に私は面白い話がある訳じゃないって言うか
私
ただの大学生ですし……
ネロリ
ネロリ
そう? その割には夜遊びしてたみたいだけど
 突然投げかけられる、鋭い言葉。
 見事に意表をつかれた私は、ぎくりと身体を強張らせた。
私
それは……
ネロリ
ネロリ
コート煙草くさかったし、大勢で飲んで来たって感じかな
私
 明らかに動揺する私を前に、「僕、推理は得意だよ」とネロリは穏やかに微笑んだ。
 後ろめたさが暗雲のように心の中を覆い、咄嗟に視線を背ける。
私
べ、別に、あなたには関係ないですし……!
ネロリ
ネロリ
そうだね。関係ないねえ
 少し言い過ぎたかと反省したものの。
 ネロリはのほほんと微笑んだままだ。
私
(ダメージゼロって顔だな……)
 返事に窮する私を前に、彼は「でもね」と白い手を伸ばす。
ネロリ
ネロリ
夜更かしで睡眠時間が減っちゃうのは、ちょっといただけないかなあ
 指先で私の目の下をつつ、となぞり、彼は小さな声で囁く。
ネロリ
ネロリ
睡眠不足は美容の敵だって、ゼラニウムも言ってたよ?
私
……
 ゼラニウムって誰だろう。
 呑気な問いは、柔らかい蜂蜜色の瞳の奥に宿る光によって牽制される。
私
(……完全に油断してたな)
 降参と言わんばかりに両手を上げ、私は彼に打ち明けた。
私
一人暮らしって、気楽だけど寂しいことも多いんですよ
ネロリ
ネロリ
うん
私
早い時間に寝ようとしても、何だか色々不安になっちゃうんですよね。将来のこととか、大学の勉強のこととか
私
だったら夜遅くまで誰かと一緒にいて、お酒飲んだり遊んだりして、疲れ果てた状態で寝た方が幸せかな、って……
 これが正解じゃないことは心得ているつもりだ。
 それを証明するかのように、私の声は段々と小さくしぼんで行く。
ネロリ
ネロリ
教えてくれてありがとね
 静かに聞いていたネロリが、音もなく立ち上がる。
 そしてベッドの上へこてんと転がると、当たり前のように私の布団にくるまった。
私
ちょっと、私の布団!
ネロリ
ネロリ
きみの悩みに対する答えは簡単だよ
 そう言って、「はい、どーぞ」と彼は両手を広げた。
ネロリ
ネロリ
一人が不安なら、誰かといっしょに寝れば良いだけ
私
え?
 唖然とする私を前に、ネロリは「ほら。おいで」とにっこりと微笑む。
私
あの……正気ですか?
ネロリ
ネロリ
ぼくはいっつも真面目だよー。普通じゃないって言われることの方が多いけど
私
……何もしませんよね?
ネロリ
ネロリ
するよ
私
ネロリ
ネロリ
きみが眠れるまで、そばにいてあげる
 微妙に噛み合わない会話に、張りつめていた肩の力が抜ける。
 ここまでマイペースだと、いちいち反応するのが馬鹿みたいだ。
私
……分かりました
 観念したように、私は思い切って布団に入った。
ネロリ
ネロリ
はい。捕まえた
 ネロリは優しく、けれど男の人にしか出せない力で私を抱きしめる。
ネロリ
ネロリ
ぐっすり眠れるまで、ぼくはきみのことを離しませーん
 抱きしめられることによって急に上がった心拍数は、全身から伝わる彼の温もりを感じるうちに、徐々に落ち着きを取り戻して行く。
私
(ネロリ……良い香りする)
 さっきお風呂は貸したけど、こんな香りの石鹸はバスルームに置いていない。
 寂しさと空白を埋めるような甘い香りに身を委ねるうちに、段々と瞳が重くなって行った。
ネロリ
ネロリ
確かに、夜はきみを不安な気持ちにさせるお化けがたくさんいるよ
ネロリ
ネロリ
だけど、今日はぼくがついてるから――
ネロリ
ネロリ
きみは安心して、ゆっくり眠れば良い
 うとうととする私を抱きしめたまま、彼は優しく私の頭を撫でた。
ネロリ
ネロリ
おやすみ、僕だけの羊さん
私
……おやすみ……なさい……
 穏やかな声に導かれるように、私は静かに意識を手放した。



 *   *   *



 カーテンの隙間から差し込む朝日に反応し、ゆっくりと目を開く。
私
(ーーもう朝か)
私
(そう言えば、昨日の夜はーー)
 ぼんやりした頭で昨晩の不思議な出来事を思い出し、顔を横に向けるものの。
私
……あれ?
 隣で横になっていたはずのネロリは、魔法のように忽然と消えていた。
私
(夢、だったのかな)
 そう思ったのも束の間ーー
 枕元に、かわいらしい布製のサシェが置かれていることに気付いた。
 口元を蜂蜜色のリボンで結ばれた、袋型のそれを私は両手で包み込み、そっと鼻先へ近付ける。
私
(……もう、夜更かしはしません)
 だって、一人ぼっちじゃないから。

 ふわりと漂う優しく甘い香りに誓いつつ、私はそっとサシェを胸に抱いた。

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