目の前を、紙袋を持った少年がぱたぱたと駆け抜けて行く。
その後ろ姿を見送っていると、途中でポケットから財布をぽとりと落とした。
彼はそれに気付くことなく、道の突き当たりに位置する白い門の中へ入って行く。
私は思わず財布を拾い、彼の後を追いかけた。
門をくぐって入って行けば、そこには色とりどりの花が咲き乱れる美しい庭園が広がっている。
まるでお茶会を急ぐ白兎のように、一目散に庭園の石畳を駆けて行った少年は、その先に佇む屋敷の扉の中へと入って行く。彼に続いて、自分もその扉を開いた。
ドアノブの向こうに広がる、壮麗な屋敷の中。吹き抜けになった2階の天井から釣り下がる巨大なシャンデリアが、圧倒的な存在感を放っている。
他にも細やかな装飾が施された調度品で揃えられた室内は、まるでイギリスかどこかの貴族の屋敷に迷い込んでしまったかのようだ。
私の声に、2階へと続く木製の螺旋階段を登りかけていた少年は驚いて振り返る。
茶色い瞳でぱちぱちとこちらを見ていた少年は、事態を理解した途端にぱっと笑顔になった。
彼が笑った瞬間、周りの空気までもが明るくなったかのような錯覚を覚える。
そう言って彼は持っていた紙袋から一冊の漫画を取り出す。
家族を亡くした少年が一匹の飼い犬と共にマウンテンバイクで日本を一周する、涙無しでは読めないと話題の作品だ。
自分は読んだことが無かったけれど、連載が始まってほどなくして大ヒットし、最近では映画化が決まったニュースをテレビでも目にしたばかりだった。
少年は漫画を手にしたまま、階段からぴょんと飛び降りる。
そして彼は「ここに座って」と、丁度シャンデリアの真下に位置する広間に置かれたソファに促す。
ソファへ腰掛ける私へ向かって彼はさも当たり前であるかのようにそう言ったけれど、自分には意味が良く分からなかった。
そもそもメゾン・ド・ゼフィールとは一体何だろう。『メゾン』だから、人が住む家なのだろうか。
様々な憶測が自分の頭の中をぐるぐると巡るが、そんなことはお構いなしで彼は瞳をキラキラと輝かせて私が悩みを打ち明けるのを待っている。その様子はまるで尻尾を振りながら飼い主に撫でられるのを待つ子犬のようだ。
折角悩みを聞くと言ってくれているのに、何も喋らずして彼をがっかりさせてしまうのもかわいそうだ。私は仕方なく打ち明けた。
案の定向かいのソファに座る彼はぴょこんと首を傾げた。
少年のあまりの清々しさに思わず噴き出す。
『カモミール』が誰を指すのかは分からなかったけれど、太陽のような笑顔からはポジティブさしか感じ取ることができない。
彼の周りを取り巻く人々も、きっと同じオーラを彼から感じ取っていることだろう。
そんなことをぼんやりと考えていると、「でも、ポジティブな僕からお姉ちゃんに伝えたいことがあるよ」と少年は身を乗り出すと、人差し指で私の鼻先に触れた。
思ったままに答えれば、彼は「違うよ」と首を振る。
そう言ったかと思えば、ずいっと少年の顔が近付く。唇に息が当たりそうなほどのこそばゆい距離で、少年はくすりと笑った。
途端、ぼんっ、と音を立てそうなほどに頬が紅潮する。
自分より年下の男の子に言われているはずなのに、妙に恥ずかしくてたまらない気持ちになった。
焦る自分など露知らず、少年はにっこり笑って立ち上がると隣の部屋からガラスのボトルを両手で抱えて持って来た。
四角柱の形のガラス瓶には繊細な彫刻が施されている。しゅわしゅわと泡立つソーダ水の中に、鮮やかな緑色のハーブや黄色い花々が浮かんでいた。
用意されたコップに注いでもらう。一口飲めばすっきりとした味わいが口の中に広がった。
その香りは、レモンのような、オレンジのような。
自分のコップにソーダを注ぎながら、彼は説明した。
結露で滲んだ水滴が両手を冷やして行く。彼のせいで熱を持っていた身体が、段々と落ち着きを取り戻して行くのが分かった。
そう言ってシトロネラは微笑んだ。
ふにゃっと笑う彼の太陽のような笑顔につられて、自分も思わず口元が緩んだのだった。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!