第6話

ゼラニウム「恋愛に振り回されるお姫様へ」
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2019/12/16 09:44
 アイロンで指先を火傷しながら巻いた髪。
 この日のために用意したフレアスカート。
 家を出る前に丁寧に塗った口紅は、電車を乗り継いで待ち合わせ場所へ着く頃にはすっかり落ちてしまっていた。

『ごめーん。他の子と予定入っちゃったから、またいつかね』

 画面が表示されたままのスマートフォンを手に、呆然とベンチに腰を落とす。
私
(結局私も、大勢いる女の子の一人でしかなかったんだ)
 本当は心のどこかで分かっていたはずなのに。
 デートに誘われて勝手に期待して、舞い上がっていたのはどうやら自分だけだったようだ。
私
(……私は、本気だったのにな)
 残酷な現実を突きつけられた私は家に帰る気にもなれず、寒空の下で道行く人々をただぼんやりと眺めるしかなかった。
ゼラニウム
ゼラニウム
待たせたね
 ふと鼻先に広がる甘い香り。
 同時に降り注ぐ低くも甘い声に顔を上げると、息を呑むほどに顔立ちの整った青年が立っていた。

 白を基調としたコーディネートに、やや色味を抑えたピンク色のストールが後ろ向きな気持ちになりがちな寒い季節に華を添えている。
私
あ、貴方は……?
ゼラニウム
ゼラニウム
俺?  俺はゼラニウム
 道行く女性がちらちらと視線をこちらへ向けている。人違いではないかと思い辺りを見回すが、彼はシャンパンのように透き通るピンク色の瞳をまっすぐこちらへと向けていた。
ゼラニウム
ゼラニウム
ほら、早く行こう
 ゼラニウムと名乗った青年は、流れるような動作で私の手を取り、ベンチから立たせる。
私
どこへ?
ゼラニウム
ゼラニウム
どこって。お姫様の行きたいところに決まってるでしょ
 私の質問が可笑しかったのか、彼はくすくすと笑った。
ゼラニウム
ゼラニウム
今日はどこに行くつもりだったの?
私
……公園で待ち合わせして、おいしいものを食べに行くつもりでした
ゼラニウム
ゼラニウム
じゃあ行こう。早く行かないと舞踏会が始まってしまうよ
 恋人つなぎのまま、ゼラニウムさんは歩き出す。
 完璧なエスコートを拒む隙は一瞬たりとも存在せず、私は流されるままに彼から漂う甘い香りを追うほかなかった。



 *   *   *



 公園を後にした私が謎の美青年に連れて行かれたのは、ベイエリアにある小洒落たレストランだった。
 有機野菜のアンティパスト。ペコリーノチーズを使用したボロネーゼ。バルサミコ酢のカルパッチョ。
 目の前に次々と並べられるメニューに、私は思わず瞳を輝かせる。
私
お、美味しそう……!
ゼラニウム
ゼラニウム
でしょ? ここ、俺のお気に入りなんだ
 さあ遠慮せずにどうぞ、と言われるままに料理を口に運ぶ。
 料理は思わず身悶えするほど美味しいものばかりで、気付けば先刻の悲しみなどはすっかりどこかへ吹き飛んでしまっていた。
私
ゼラニウムさんは、普段どんなお仕事を?
 私の向かいで優雅にカトラリーを扱う彼をちらりと見ながら、気になっていたことを尋ねる。
ゼラニウム
ゼラニウム
そんなの、君が一番分かってるでしょ?
私
え?
ゼラニウム
ゼラニウム
君を癒すのが、俺の仕事だよ
私
(……これは、はぐらかされちゃったかな)
 そう思いつつも、にっこりと微笑む彼の表情に悪びれた様子はない。
ゼラニウム
ゼラニウム
それよりも、俺は君の仕事について教えて欲しいけどね
 質問を返された私は、慌てて首を振る。
私
そんな、私の仕事は大したことないですし……
ゼラニウム
ゼラニウム
大したことない職業なんてないと思うよ?
ゼラニウム
ゼラニウム
君が働くことによって誰か一人でも助かる人がいるならば、胸を張って良いと俺は思う
 彼の優しい眼差しは、枯れ果てた私の心に豊穣の雨をもたらした。
 これまで男性と関わる中で、ここまで温かい言葉をかけてもらったことがあっただろうか。
 せり上がる感情を何とか堪えながら、私はもぐもぐと口を動かし続けた。



 *   *   *



 レストランでの料理を楽しんだ後。
 海が見たいと言った私のリクエストに応え、ゼラニウムさんは店から少し歩いた場所にある展望台へ連れて行ってくれた。
ゼラニウム
ゼラニウム
ちょうどサンセットの時刻だね
 彼が言う通り、水平線に沈む陽の光はじわじわと海面に滲んでいる。
ゼラニウム
ゼラニウム
昨日が雨だった分、今日の夕焼けは綺麗に見えるね
私
雨が降ると見え方が変わるんですか?
ゼラニウム
ゼラニウム
うん。雨で、空気中の不純物が洗い流されるからって言われてるけど……
 不意にゼラニウムさんの左手が、私の肩に回された。
ゼラニウム
ゼラニウム
俺も君の悲しみを洗い流してあげることができたら良いんだけどな
 そのままぎゅっと引き寄せられ、互いの距離が近付く。
ゼラニウム
ゼラニウム
良かったら話してくれないかな。今日、何があったか
 甘さを含んだ低音が耳元で囁かれ、背中を下から上にかけてぞくりとした感触が走る。
 それでも何とか平静を保とうと、私は外へ目を向けたまま言葉を紡いだ。
私
……振られちゃったんです。好きだった相手に
私
人気者の彼の一番になりたくて、彼が好きそうな洋服も、メイクも、全部試して来ました。でも駄目だった
 ゼラニウムさんのおかげで悲しみは和らいだと思っていたけれど。
 改めて口にすると、自分の情けなさとかっこ悪さで涙が溢れて来る。
私
ほんと、恋愛って思い通りにならないですよね
 彼の指先が、私の目元を拭う。
 顔を上げると、彼の優しい瞳と視線が絡まった。
ゼラニウム
ゼラニウム
俺も男だから、君みたいに可愛い女の子がいたらすぐ声をかけたくなっちゃう。でも……
ゼラニウム
ゼラニウム
一つだけ、他の男と違うって誇れることがあるかな
私
っ……何ですか?
ゼラニウム
ゼラニウム
君を幸せにできることだよ
 気付けば周囲には、誰もいなくなっている。
 人目がないのを良いことに、ゼラニウムさんは不敵な笑みを浮かべると指先で私の顎をすくった。
私
あ、あの、ゼラニウムさん……
ゼラニウム
ゼラニウム
返事はいつでも良いから……君の答え、聞かせて欲しいな



 *   *   *



 あれから、ゼラニウムさんが私の前に現れることはなかった。
私
(返事を聞かせて欲しいって言ったのはあっちなのに)
私
(ま、いっか……)
 つい買いすぎてしまった洋服が入った紙袋を、よいしょ、と肩にかけ直す。
 休日を利用して、私は百貨店へ買い物に来ていた。
私
(自分で自由に洋服を選ぶのって、こんなに楽しかったんだな)
 男ウケを狙うならスカートを履いた方が良い。丈は膝上五センチメートル、柄は花柄がチェックのものーー
 人の目ばかり気にしていた今までの自分が、馬鹿みたいだ。
私
(私に自由を教えてくれたのはーー)
 そう考えて、はた、と立ち止まる。
 記憶を思い起こさせる華やかな香りに、私はぐるりと辺りを見回した。

 視線の先に、ガラスケースに並べられた一本の香水がある。その柔らかなピンク色に引き寄せられるように、私は瓶を手に取った。
 ゆるく曲線を描く瓶に筆記体で書かれた香水の名前は、『Geranium』。
私
(……『彼』の香りだ)
 その時、背後でカツン、と硬い靴底が当たる音がする。
???
お客様、その香水が気になりますか?
私
はい。この香りをずっと探してたんです
私
ここに私の答えがあるからーー
 言いかけて、驚いて振り返る。

 甘く低い声の主は、「なんちゃって」と笑顔で片目をつぶって見せた。

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