アイロンで指先を火傷しながら巻いた髪。
この日のために用意したフレアスカート。
家を出る前に丁寧に塗った口紅は、電車を乗り継いで待ち合わせ場所へ着く頃にはすっかり落ちてしまっていた。
『ごめーん。他の子と予定入っちゃったから、またいつかね』
画面が表示されたままのスマートフォンを手に、呆然とベンチに腰を落とす。
本当は心のどこかで分かっていたはずなのに。
デートに誘われて勝手に期待して、舞い上がっていたのはどうやら自分だけだったようだ。
残酷な現実を突きつけられた私は家に帰る気にもなれず、寒空の下で道行く人々をただぼんやりと眺めるしかなかった。
ふと鼻先に広がる甘い香り。
同時に降り注ぐ低くも甘い声に顔を上げると、息を呑むほどに顔立ちの整った青年が立っていた。
白を基調としたコーディネートに、やや色味を抑えたピンク色のストールが後ろ向きな気持ちになりがちな寒い季節に華を添えている。
道行く女性がちらちらと視線をこちらへ向けている。人違いではないかと思い辺りを見回すが、彼はシャンパンのように透き通るピンク色の瞳をまっすぐこちらへと向けていた。
ゼラニウムと名乗った青年は、流れるような動作で私の手を取り、ベンチから立たせる。
私の質問が可笑しかったのか、彼はくすくすと笑った。
恋人つなぎのまま、ゼラニウムさんは歩き出す。
完璧なエスコートを拒む隙は一瞬たりとも存在せず、私は流されるままに彼から漂う甘い香りを追うほかなかった。
* * *
公園を後にした私が謎の美青年に連れて行かれたのは、ベイエリアにある小洒落たレストランだった。
有機野菜のアンティパスト。ペコリーノチーズを使用したボロネーゼ。バルサミコ酢のカルパッチョ。
目の前に次々と並べられるメニューに、私は思わず瞳を輝かせる。
さあ遠慮せずにどうぞ、と言われるままに料理を口に運ぶ。
料理は思わず身悶えするほど美味しいものばかりで、気付けば先刻の悲しみなどはすっかりどこかへ吹き飛んでしまっていた。
私の向かいで優雅にカトラリーを扱う彼をちらりと見ながら、気になっていたことを尋ねる。
そう思いつつも、にっこりと微笑む彼の表情に悪びれた様子はない。
質問を返された私は、慌てて首を振る。
彼の優しい眼差しは、枯れ果てた私の心に豊穣の雨をもたらした。
これまで男性と関わる中で、ここまで温かい言葉をかけてもらったことがあっただろうか。
せり上がる感情を何とか堪えながら、私はもぐもぐと口を動かし続けた。
* * *
レストランでの料理を楽しんだ後。
海が見たいと言った私のリクエストに応え、ゼラニウムさんは店から少し歩いた場所にある展望台へ連れて行ってくれた。
彼が言う通り、水平線に沈む陽の光はじわじわと海面に滲んでいる。
不意にゼラニウムさんの左手が、私の肩に回された。
そのままぎゅっと引き寄せられ、互いの距離が近付く。
甘さを含んだ低音が耳元で囁かれ、背中を下から上にかけてぞくりとした感触が走る。
それでも何とか平静を保とうと、私は外へ目を向けたまま言葉を紡いだ。
ゼラニウムさんのおかげで悲しみは和らいだと思っていたけれど。
改めて口にすると、自分の情けなさとかっこ悪さで涙が溢れて来る。
彼の指先が、私の目元を拭う。
顔を上げると、彼の優しい瞳と視線が絡まった。
気付けば周囲には、誰もいなくなっている。
人目がないのを良いことに、ゼラニウムさんは不敵な笑みを浮かべると指先で私の顎をすくった。
* * *
あれから、ゼラニウムさんが私の前に現れることはなかった。
つい買いすぎてしまった洋服が入った紙袋を、よいしょ、と肩にかけ直す。
休日を利用して、私は百貨店へ買い物に来ていた。
男ウケを狙うならスカートを履いた方が良い。丈は膝上五センチメートル、柄は花柄がチェックのものーー
人の目ばかり気にしていた今までの自分が、馬鹿みたいだ。
そう考えて、はた、と立ち止まる。
記憶を思い起こさせる華やかな香りに、私はぐるりと辺りを見回した。
視線の先に、ガラスケースに並べられた一本の香水がある。その柔らかなピンク色に引き寄せられるように、私は瓶を手に取った。
ゆるく曲線を描く瓶に筆記体で書かれた香水の名前は、『Geranium』。
その時、背後でカツン、と硬い靴底が当たる音がする。
言いかけて、驚いて振り返る。
甘く低い声の主は、「なんちゃって」と笑顔で片目をつぶって見せた。
編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。