第3話

二百十日 3
39
2021/04/04 23:00
 一度途切とぎれた村鍛冶むらかじの音は、今日山里に立つ秋を、幾重いくえ稲妻いなずまくだくつもりか、かあんかあんと澄み切った空の底に響き渡る。
圭さん
あの音を聞くと、どうしても豆腐屋の音が思い出される
と圭さんが腕組をしながら云う。
碌さん
全体豆腐屋の子がどうして、そんなになったもんだね
圭さん
豆腐屋の子がどんなになったのさ
碌さん
だって豆腐屋らしくないじゃないか
圭さん
豆腐屋だって、肴屋さかなやだって――なろうと思えば、何にでもなれるさ
碌さん
そうさな、つまり頭だからね
圭さん
頭ばかりじゃない。世の中には頭のいい豆腐屋が何人いるか分らない。それでも生涯しょうがい豆腐屋さ。気の毒なものだ
碌さん
それじゃ何だい
と碌さんが小供らしく質問する。
圭さん
何だって君、やっぱりなろうと思うのさ
碌さん
なろうと思ったって、世の中がしてくれないのがだいぶあるだろう
圭さん
だから気の毒だと云うのさ。不公平な世の中に生れれば仕方がないから、世の中がしてくれなくても何でも、自分でなろうと思うのさ
碌さん
思って、なれなければ?
圭さん
なれなくっても何でも思うんだ。思ってるうちに、世の中が、してくれるようになるんだ
と圭さんは横着おうちゃくを云う。
碌さん
そう注文通りにけば結構だ。ハハハハ
圭さん
だって僕は今日までそうして来たんだもの
碌さん
だから君は豆腐屋らしくないと云うのだよ
圭さん
これから先、また豆腐屋らしくなってしまうかも知れないかな。厄介やっかいだな。ハハハハ
碌さん
なったら、どうするつもりだい
圭さん
なれば世の中がわるいのさ。不公平な世の中を公平にしてやろうと云うのに、世の中が云う事をきかなければ、むこうの方が悪いのだろう
碌さん
しかし世の中も何だね、君、豆腐屋がえらくなるようなら、自然えらい者が豆腐屋になる訳だね
圭さん
えらい者た、どんな者だい
碌さん
えらい者って云うのは、何さ。たとえば華族かぞくとか金持とか云うものさ
と碌さんはすぐ様えらい者を説明してしまう。
圭さん
うん華族や金持か、ありゃ今でも豆腐屋じゃないか、君
碌さん
その豆腐屋れんが馬車へ乗ったり、別荘を建てたりして、自分だけの世の中のような顔をしているから駄目だよ
圭さん
だから、そんなのは、本当の豆腐屋にしてしまうのさ
碌さん
こっちがする気でも向がならないやね
圭さん
ならないのをさせるから、世の中が公平になるんだよ
碌さん
公平に出来れば結構だ。大いにやりたまえ
圭さん
やりたまえじゃいけない。君もやらなくっちゃあ。――ただ、馬車へ乗ったり、別荘を建てたりするだけならいいが、むやみに人を圧逼あっぱくするぜ、ああ云う豆腐屋は。自分が豆腐屋の癖に
と圭さんはそろそろ慷慨こうがいし始める。
碌さん
君はそんな目にった事があるのかい
 圭さんは腕組をしたままふふんと云った。村鍛冶の音は不相変あいかわらずかあんかあんと鳴る。
圭さん
まだ、かんかんってる。――おい僕の腕は太いだろう
と圭さんは突然腕まくりをして、黒いやつを碌さんの前にしつけた。
碌さん
君の腕は昔から太いよ。そうして、いやに黒いね。豆をいた事があるのかい
圭さん
豆も磨いた、水もんだ。――おい、君粗忽そこつで人の足を踏んだらどっちがあやまるものだろう
碌さん
踏んだ方が謝まるのが通則のようだな
圭さん
突然、人の頭を張りつけたら?
碌さん
そりゃ気違きちがいだろう
圭さん
気狂きちがいなら謝まらないでもいいものかな
碌さん
そうさな。謝まらさす事が出来れば、謝まらさす方がいいだろう
圭さん
それを気違の方で謝まれって云うのは驚ろくじゃないか
碌さん
そんな気違があるのかい
圭さん
今の豆腐屋れんはみんな、そう云う気違ばかりだよ。人を圧迫した上に、人に頭を下げさせようとするんだぜ。本来ならむこうが恐れ入るのが人間だろうじゃないか、君
碌さん
無論それが人間さ。しかし気違の豆腐屋なら、うっちゃって置くよりほかに仕方があるまい
 圭さんは再びふふんと云った。しばらくして、
圭さん
そんな気違を増長させるくらいなら、世の中に生れて来ない方がいい
ひとごとのようにつけた。
 村鍛冶の音は、会話が切れるたびに静かな里のはじから端までかあんかあんと響く。
圭さん
しきりにかんかんやるな。どうも、あの音は寒磬寺かんけいじかねに似ている
碌さん
妙に気に掛るんだね。その寒磬寺の鉦の音と、気違の豆腐屋とでも何か関係があるのかい。――全体君が豆腐屋のせがれから、今日こんにちまでに変化した因縁いんねんはどう云う筋道なんだい。少し話して聞かせないか
圭さん
聞かせてもいいが、何だか寒いじゃないか。ちょいと夕飯ゆうめし前に温泉這入はいろう。君いやか
碌さん
うん這入ろう
 圭さんと碌さんは手拭てぬぐいをぶら下げて、庭へ降りる。棕梠緒しゅろお貸下駄かしげたには都らしく宿の焼印やきいんが押してある。

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