第10話

二百十日 10
22
2021/05/23 23:00
圭さん
おいこれから曲がっていよいよ登るんだろう
けいさんが振り返る。
碌さん
ここを曲がるかね
圭さん
何でも突き当りに寺の石段が見えるから、門を這入はいらずに左へ廻れと教えたぜ
碌さん
饂飩屋うどんやじいさんがか
ろくさんはしきりに胸をで廻す。
圭さん
そうさ
碌さん
あの爺さんが、何を云うか分ったもんじゃない
圭さん
なぜ
碌さん
なぜって、世の中に商売もあろうに、饂飩屋になるなんて、第一それからが不了簡ふりょうけん
圭さん
饂飩屋だって正業だ。金を積んで、貧乏人を圧迫するのを道楽にするような人間よりはるかにたっといさ
碌さん
尊といかも知れないが、どうも饂飩屋はしょうに合わない。――しかし、とうとう饂飩を食わせられた今となって見ると、いくら饂飩屋の亭主をうらんでもあとまつりだから、まあ、我慢して、ここから曲がってやろう
圭さん
石段は見えるが、あれが寺かなあ、本堂も何もないぜ
碌さん
阿蘇あその火で焼けちまったんだろう。だから云わない事じゃない。――おい天気が少々剣呑けんのんになって来たぜ
圭さん
なに、大丈夫だ。天祐てんゆうがあるんだから
碌さん
どこに
圭さん
どこにでもあるさ。意思のある所には天祐がごろごろしているものだ
碌さん
どうも君は自信家だ。剛健党ごうけんとうになるかと思うと、天祐派てんゆうはになる。この次ぎには天誅組てんちゅうぐみにでもなって筑波山つくばさんへ立てこもるつもりだろう
圭さん
なに豆腐屋時代から天誅組さ。――貧乏人をいじめるような――豆腐屋だって人間だ――いじめるって、何らの利害もないんだぜ、ただ道楽なんだから驚ろく
碌さん
いつそんな目にったんだい
圭さん
いつでもいいさ。桀紂けっちゅうと云えば古来から悪人としてとおものだが、二十世紀はこの桀紂で充満しているんだぜ、しかも文明の皮を厚くかぶってるから小憎こにくらしい
碌さん
皮ばかりで中味のない方がいいくらいなものかな。やっぱり、金があり過ぎて、退屈だと、そんな真似まねがしたくなるんだね。馬鹿に金を持たせると大概桀紂になりたがるんだろう。僕のような有徳うとくの君子は貧乏だし、彼らのような愚劣なはいは、人を苦しめるために金銭を使っているし、困った世の中だなあ。いっそ、どうだい、そう云う、ももんがあを十把一ぱひとからげにして、阿蘇の噴火口から真逆様まっさかさまに地獄の下へ落しちまったら
圭さん
今に落としてやる
と圭さんは薄黒く渦巻うずまく煙りを仰いで、草鞋足わらじあしをうんと踏張ふんばった。
碌さん
大変な権幕けんまくだね。君、大丈夫かい。十把一とからげをほうり込まないうちに、君が飛び込んじゃいけないぜ
圭さん
あの音は壮烈だな
碌さん
足の下が、もう揺れているようだ。――おいちょっと、地面へ耳をつけて聞いて見たまえ
圭さん
どんなだい
碌さん
非常な音だ。たしかに足の下がうなってる
圭さん
その割に煙りがこないな
碌さん
風のせいだ。北風だから、右へ吹きつけるんだ
圭さん
が多いから、方角が分らない。もう少し登ったら見当がつくだろう
 しばらくは雑木林ぞうきばやしの間を行く。道幅は三尺に足らぬ。いくら仲がくても並んで歩行あるく訳には行かぬ。圭さんは大きな足を悠々ゆうゆうと振って先へ行く。碌さんは小さな体躯からだをすぼめて、小股こまたあとからいて行く。尾いて行きながら、圭さんの足跡の大きいのに感心している。感心しながら歩行いて行くと、だんだんおくれてしまう。
 路は左右に曲折して爪先上つまさきあがりだから、三十分と立たぬうちに、圭さんの影を見失った。樹と樹の間をすかして見ても何にも見えぬ。山を下りる人は一人もない。あがるものにも全く出合わない。ただ所々に馬の足跡がある。たまに草鞋の切れがいばらにかかっている。そのほかに人の気色けしきはさらにない、饂飩腹うどんばらの碌さんは少々心細くなった。

プリ小説オーディオドラマ