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第1話

二百十日 1
257
2021/03/21 23:00


 ぶらりと両手をげたまま、けいさんがどこからか帰って来る。
碌さん
どこへ行ったね
圭さん
ちょっと、町を歩行あるいて来た
碌さん
何かるものがあるかい
圭さん
寺が一軒あった
碌さん
それから
圭さん
銀杏いちょうが一本、門前もんぜんにあった
碌さん
それから
圭さん
銀杏いちょうの樹から本堂まで、一丁半ばかり、石が敷き詰めてあった。非常に細長い寺だった
碌さん
這入はいって見たかい
圭さん
やめて来た
碌さん
そのほかに何もないかね
圭さん
別段何もない。いったい、寺と云うものは大概の村にはあるね、君
碌さん
そうさ、人間の死ぬ所には必ずあるはずじゃないか
圭さん
なるほどそうだね
と圭さん、首をひねる。圭さんは時々妙な事に感心する。しばらくして、ねった首を真直まっすぐにして、圭さんがこう云った。
圭さん
それから鍛冶屋かじやの前で、馬のくつえるところを見て来たが実にたくみなものだね
碌さん
どうも寺だけにしては、ちと、時間が長過ぎると思った。馬の沓がそんなに珍しいかい
圭さん
珍らしくなくっても、見たのさ。君、あれに使う道具が幾通りあると思う
碌さん
幾通りあるかな
圭さん
あてて見たまえ
碌さん
あてなくってもいから教えるさ
圭さん
何でも七つばかりある
碌さん
そんなにあるかい。何と何だい
圭さん
何と何だって、たしかにあるんだよ。第一爪をはがすのみと、鑿をたたつちと、それから爪をけずる小刀と、爪をえぐみょうなものと、それから……
碌さん
それから何があるかい
圭さん
それから変なものが、まだいろいろあるんだよ。第一馬のおとなしいには驚ろいた。あんなに、削られても、刳られても平気でいるぜ
碌さん
爪だもの。人間だって、平気で爪をるじゃないか
圭さん
人間はそうだが馬だぜ、君
碌さん
馬だって、人間だって爪に変りはないやね。君はよっぽど呑気のんきだよ
圭さん
呑気だから見ていたのさ。しかし薄暗い所で赤い鉄を打つと奇麗きれいだね。ぴちぴち火花が出る
碌さん
出るさ、東京の真中でも出る
圭さん
東京の真中でも出る事は出るが、感じが違うよ。こう云う山の中の鍛冶屋は第一、音から違う。そら、ここまで聞えるぜ
 初秋はつあき日脚ひあしは、うそ寒く、遠い国の方へかたむいて、さびしい山里の空気が、心細い夕暮れをうながすなかに、かあんかあんと鉄を打つ音がする。
圭さん
聞えるだろう
と圭さんが云う。
碌さん
うん
ろくさんは答えたぎり黙然もくねんとしている。隣りの部屋で何だか二人しきりに話をしている。
竹刀
そこで、その、相手が竹刀しないを落したんだあね。すると、その、ちょいと、小手こてを取ったんだあね
小手
ふうん。とうとう小手を取られたのかい
竹刀
とうとう小手を取られたんだあね。ちょいと小手を取ったんだが、そこがそら、竹刀しないを落したものだから、どうにも、こうにもしようがないやあね
小手
ふうん。竹刀を落したのかい
竹刀
竹刀は、そら、さっき、落してしまったあね
小手
竹刀を落してしまって、小手を取られたら困るだろう
竹刀
困らああね。竹刀も小手も取られたんだから
 二人の話しはどこまで行っても竹刀と小手で持ち切っている。黙然もくねんとして、対坐たいざしていた圭さんと碌さんは顔を見合わして、にやりと笑った。
 かあんかあんと鉄を打つ音が静かな村へ響き渡る。癇走かんばしった上に何だか心細い。
圭さん
まだ馬のくつを打ってる。何だか寒いね、君
と圭さんは白い浴衣ゆかたの下で堅くなる。碌さんも同じく白地しろじ単衣ひとええりをかき合せて、だらしのない膝頭ひざがしら行儀ぎょうぎよくそろえる。やがて圭さんが云う。

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