第16話

二百十日 16
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2021/07/04 23:00
 会話はしばらく途切とぎれる。草の中に立って碌さんが覚束おぼつかなく四方を見渡すと、向うの草山へぶつかった黒雲が、峰の半腹はんぷくで、どっとくずれて海のように濁ったものが頭を去る五六尺の所まで押し寄せてくる。時計はもう五時に近い。山のなかばはたださえ薄暗くなる時分だ。ひゅうひゅうと絶間なく吹きろす風は、吹くたびに、黒い夜を遠い国から持ってくる。刻々とせまる暮色のなかに、嵐はまんじに吹きすさむ。噴火孔ふんかこうから吹き出す幾万斛いくまんごくの煙りは卍のなかに万遍まんべんなくき込まれて、嵐の世界を尽くして、どす黒くみなぎり渡る。
圭さん
おい。いるか
碌さん
いる。何か考えついたかい
圭さん
いいや。山の模様はどうだい
碌さん
だんだん荒れるばかりだよ
圭さん
今日は何日いくかだっけかね
碌さん
今日は九月二日さ
圭さん
ことによると二百十日かも知れないね
 会話はまた切れる。二百十日の風と雨と煙りは満目まんもくの草をうずめ尽くして、一丁先はなびく姿さえ、判然はきと見えぬようになった。
碌さん
もう日が暮れるよ。おい。いるかい
 谷の中の人は二百十日の風に吹きさらわれたものか、うんとも、すんとも返事がない。阿蘇あその御山は割れるばかりにごううと鳴る。
 碌さんは青くなって、また草の上へ棒のように腹這はらばいになった。
碌さん
おおおい。おらんのか
圭さん
おおおい。こっちだ
 薄暗い谷底を半町ばかり登った所に、ぼんやりと白い者が動いている。手招きをしているらしい。
碌さん
なぜ、そんな所へ行ったんだああ
圭さん
ここから上がるんだああ
碌さん
上がれるのかああ
圭さん
上がれるから、早く来おおい
 碌さんは腹の痛いのも、足の豆も忘れて、脱兎だっといきおいで飛び出した。
碌さん
おい。ここいらか
圭さん
そこだ。そこへ、ちょっと、首を出して見てくれ
碌さん
こうか。――なるほど、こりゃ大変浅い。これなら、僕が蝙蝠傘こうもりを上から出したら、それへ、らまって上がれるだろう
圭さん
かさだけじゃ駄目だ。君、気の毒だがね
碌さん
うん。ちっとも気の毒じゃない。どうするんだ
圭さん
兵児帯へこおびを解いて、その先をかさへ結びつけて――君の傘の柄は曲ってるだろう
碌さん
曲ってるとも。大いに曲ってる
圭さん
その曲ってる方へ結びつけてくれないか
碌さん
結びつけるとも。すぐ結びつけてやる
圭さん
結びつけたら、その帯のはじを上からぶら下げてくれたまえ
碌さん
ぶら下げるとも。わけはない。大丈夫だから待っていたまえ。――そうら、長いのが天竺てんじくから、ぶら下がったろう
圭さん
君、しっかりかさを握っていなくっちゃいけないぜ。僕の身体からだは十七貫六百目あるんだから
碌さん
何貫目あったって大丈夫だ、安心して上がりたまえ
圭さん
いいかい
碌さん
いいとも
圭さん
そら上がるぜ。――いや、いけない。そう、ずり下がって来ては……
碌さん
今度は大丈夫だ。今のはためして見ただけだ。さあ上がった。大丈夫だよ
圭さん
君がべると、二人共落ちてしまうぜ
碌さん
だから大丈夫だよ。今のは傘の持ちようがわるかったんだ
圭さん
君、すすきの根へ足をかけて持ちこたえていたまえ。――あんまり前の方でると、がけくずれて、足が滑べるよ
碌さん
よし、大丈夫。さあ上がった
圭さん
足を踏ん張ったかい。どうも今度もあぶないようだな
碌さん
おい
圭さん
何だい
碌さん
君は僕が力がないと思って、おおいに心配するがね
圭さん
うん
碌さん
僕だって一人前の人間だよ
圭さん
無論さ
碌さん
無論なら安心して、僕に信頼したらよかろう。からだは小さいが、朋友を一人谷底から救い出すぐらいの事は出来るつもりだ
圭さん
じゃ上がるよ。そらっ……
碌さん
そらっ……もう少しだ
 豆で一面にれ上がった両足を、うんと薄の根に踏ん張った碌さんは、素肌すはだを二百十日の雨にさらしたまま、海老えびのように腰を曲げて、一生懸命に、傘のにかじりついている。麦藁帽子むぎわらぼうし手拭てぬぐいしばりつけた頭の下から、真赤にいきんだ顔が、八分通り阿蘇卸あそおろしに吹きつけられて、喰い締めたの上にはよなが容赦なく降ってくる。
 毛繻子張けじゅすば八間はちけん蝙蝠こうもりの柄には、幸い太いこぶだらけの頑丈がんじょう自然木じねんぼくが、付けてあるから、折れる気遣きづかいはまずあるまい。その自然木の彎曲わんきょくした一端に、鳴海絞なるみしぼりの兵児帯へこおびが、薩摩さつま強弓ごうきゅうに新しく張ったゆみづるのごとくぴんと薄を押し分けて、先は谷の中にかくれている。その隠れているあたりから、しばらくすると大きな毬栗頭いがぐりあたまがぬっと現われた。
 やっと云う掛声と共に両手ががけふちにかかるが早いか、大入道おおにゅうどうの腰から上は、ななめにしりした蝙蝠傘こうもりと共に谷から上へ出た。同時に碌さんは、どさんと仰向あおむきになって、すすきの底に倒れた。

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