第8話

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2022/09/14 11:00
 あたしは全身の血がいっぺんに頭に上ったような気がした。顔が焼かれているみたいに熱い。
 あたしがなんですって?!
 あたしは――あたしはただ――!
牧原美紗
……だれがスキモノよ
上条澄
あ、おい、牧原さん?
 立ち上がったあたしを見て上条は慌てて名を呼んだ。あたしは財布から1万円札を取り出すとばしっと彼の顔に叩きつけた。
牧原美紗
今日は全部あたしが出すから! それでもうおしまい! もう二度と誘わないで!
上条澄
え? ちょっと、待ってくれ、どういうことだ?
牧原美紗
さ、よ、な、ら!
 あたしは店を飛び出した。ああ、この店気にいっていたのに。美味しいお酒、おいしい料理。もう二度とこられない。
 後ろから上条の声がするけど、あれだけ飲んでたら走れないはずだ。でもあたしは走る。
 さよなら上条。
 頬が冷たいのは水が流れているからだ。それは悔し涙だった。あたしの心遣いを無にされた。

 飲み仲間、失恋組。
 大事な友達だと思ってたのに、いつのまにあんたの中であたしはお手軽なオンナになっちゃったのよ。

 あたしは北風を抱き締めながら夜の街を走り続けた。



 翌日、というか夜の間からずっと上条から電話やメールが携帯に入っていた。でもあたしはでなかった。メールも開かなかった。

 あたしは自分がなんでそんなに腹を立てているのか冷静にわかっていた。
 プライドを傷つけられたのだ。
 お手軽なオンナと思われたのが悔しいのだ。
 上条にそう思われたのが。

 でもあれはただの酒に酔った男の冗談じゃないの?
 心のどこかでそんな声もする。

 上条は昨日までは紳士だった。話しも面白かったし、いい人間で、一緒に飲むのは楽しかった。
 畑違いの職場だからこそお互いの愚痴も刺身のつまみたいに楽しめた。
 そんな気持ちのいい関係を、あの一言でおじゃんにしてしまうのってもったいなくない?
 心の隅の声は段々大きくなってきた。
牧原美紗
魚徳の刺身は捨てがたいしなあ……
 口にまで出てしまう。
早瀬孝之
刺身がどうしたんですか、チーフ
 目の前に新婚の早瀬の顔がひょっこり出てくる。ああ、あんたは今日も幸せそうだね、よかったね。
牧原美紗
いえ、ほら、冬は刺身がおいしい時期だからね
早瀬孝之
そうですね。あ、そういえばうちの、魚がさばけないんですよー、切り身しかだめで
 う ち の、ときたか。
牧原美紗
のろけてないでP社の見積もり出しなさい
早瀬孝之
はいー
 動作すべてに「るんたるんた♪」とアテレコしたくなるような早瀬。上条はなんと言ってた? くにゃくにゃイケメン? 将来はハゲる?
 そう、こんな美人で有能な女の思いにも気づかなかった鈍チンはハゲてしまえ。

 時間が経つにつれてだんだんと気持ちも落ち着いてきた。午後にはあたしは上条のメールを開けて見ていた。
 上条のメールには「昨日、なにか失言したなら謝る」「理由を言ってくれ」「このままじゃ目覚めが悪い」「1万円は多すぎる」「会えないか?」「飲みに行こう」――
 思いつくままどんどん打ったらしい。

 最後のメールは今日の朝10時だった。会社で打ったのかしら。
 昨日、久しぶりに会った恋する花嫁の姿が上条を打ちのめしたのだろう。それが心の緩みになって、心ない言葉がでたのかもしれない。上条は本当に花嫁になった彼女が好きだったのだ。

 ……あれ?

 なんだか違う不愉快さが……