「さよなら」
その一言のメッセージで全てが分かった。
屋上へと続く階段を2段飛ばしで駆け上がっていく。
バンッと荒々しく扉を開けて一旦息を整える。
フェンス越しに──いる。
日が沈み出した空によく似たオレンジ色の髪が揺れた。
走って彼の元まで行き、こちら側に来るように誘導する。
しぶしぶと言った感じで、彼はフェンスを乗り越えた。
彼の大きな体をギュッと抱きしめ、顔をうずめる。
これで彼が自殺を図るのは4度目だ。しかし、何故だか毎回俺に「さよなら」とメッセージを入れるのだ。そして俺が走って屋上へ行くとフェンスに寄りかかって下界を眺めている。
きっと、寂しくて止めてもらいたかったんだろう。
ジェルくんを引き戻す時は必ず「もっと大切しなくちゃいけない」と心に誓う。
フッと笑って「死神さん」がやったのであろう手招きの動作をジェルくんは繰り返す。
目に光はない。
顔を歪めて悲しそうに苦しそうに叫ぶ彼。
嘘ではないと分かっている。けれど、分かっていても信じることはまた別の話なのだ。
………
コクリ、と頷くジェルくんは虚ろな目をしていた。
その表情に胸が苦しくなりつつも、これは彼のためだと自分を言い聞かせて今日も屋上の扉を閉めた。
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初めてあった日から俺の目は彼から離れなかった。
俗に言う、一目惚れってやつ。
透き通ったオレンジ色の髪。すらっとした8頭身で綺麗な顔立ち。メンバーの中でも1番身長が高くて、けど俺には弟みたいに慕ってくれて。
彼のことを知れば知るほど、どんどん好きになっていった。
公式でも「ななジェル」と相棒のような存在になり、話す機会も沢山。勇気を振り絞ってした告白の返事は予想外のOKで、あれは人生で最も幸せな日だったと思う。
照れた顔でよろしくお願いします、と笑う彼が愛おしくて愛おしくて仕方なかった。これからは今までと比べ物にならないくらいの素晴らしい生活になるんだと思っていた。
そう、あの時までは。
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6月12日、付き合って2週間。
週末にジェルくんとデートする予定を入れていた。あそこに行こうか、それともあちらか…と考えるだけワクワクしてプランを立てていた最中。
ブブッと短く通知音が鳴り、なんの用だと携帯の通知画面を開く。
ちょうど愛しの彼からメッセージが来て一気に高揚した俺の気持ちは次の瞬間、固まった。
「さよなら」
それは通知音と同じくらい短いメッセージだった。意味は明快。
本能的に危険を察知してバタバタバタッと靴も履かずに屋上へ向かう。
ジェルくんが同じマンションに住んでいて良かったと心底思いながら、けどそんなこと考える間も無くて、とりあえずがむしゃらに走った。
彼はフェンスの向こう側に立って寄りかかっていた。返事はない。
ボ-…と宙を見つめていたジェルくんはハッと気がついたようにゆっくりと振り返った。
フフッと笑うジェルくんは今まで見た中で1番嬉しそうで。
全く意味がわからなかった。
ジェルくんが指さした先はただの空気で、下は家やらビルやらがごちゃごちゃと固まっている。人なんていない。そもそも人は浮けない。
半分引きずるように彼をこちら側に戻す。その間も彼はずっと宙を指さして「ほらあそこあそこ」と笑っている。
恐怖で背中が湿っていくのが分かった。
その日は最終的に彼を自宅に帰らせ、自分も部屋へ戻った。
部屋に戻って、吐いた。胃がひっくり返るほど。
ジェルくんが自殺をしようとフェンスを跨いだのも、宙を見つめて嬉しそうに笑うのも、何故わかってくれないんだと泣き叫ぶのも、何もかもが理解出来なかった。
後日このことについて調べるといくつかの情報が得られた。
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この世には2種類の人間がいる。
性を快楽とする「エロス」と、死を快楽とする「タナトス」だ。
ほとんどの人間は前者である。しかし、世の中には稀に後者の人間がいる。
きっと、それがジェルくん。
タナトスの人間には「死神さん」と呼ばれる人が見えるのだという。その「死神さん」はその人にとって最も素晴らしいと言える人間に見えるらしい。
だからタナトスの人間は時に宙を、見とれるような恋をしているかのような目で見つめるのだという。
俺はその時のジェルくんが嫌いだった。
彼がぼーっとしている時は大体「死神さん」を見つめている時。
そうなると声をかけてもなかなか反応せず完全に世界に浸っている。最近は意識を逸らそうとするのも諦めた。
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日に日にストレスは増していくばかりだった。
話しかけても反応することは少なくなった。つまり「死神さん」を見つめる回数が増えたということだ。
いつもキョロキョロとしていて俺のことは全然構おうとしない。
1度、聞いたことがある。
クシャクシャと頭を撫でてくるジェルくんは楽しそうで、その度俺は安心して。けどそれじゃ足りなくてその後はベッドの上で愛を確かめたのだった。
行為中は彼が自分だけを見てくれて、それがとてつもなく嬉しかった。お互いに好きだと言えるだけで幸せだった。
けれど幸せはいつまでも続くものじゃなくて。
何度も繰り返される自殺未遂、常に上の空の状態、虚ろな目。その虚ろな目にすら俺の姿は映っていなかった。
喧嘩も自然と増えていった。
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あぁ…また今日も喧嘩をしている。もう何度目かも分からない。
正直ジェルくんと喧嘩は辛い。俺は元々喧嘩をするような性格じゃ無かったし、争いごとを避けて感情的にならないようにしていた。けれどストレスが溜まっているせいで感情も高ぶる。
その瞬間だった。
「疲れた」という言葉を発した時、ずっと体に溜まっていた黒いものがサッと無くなった気がした。
パッとジェルくんを見ると、今までで1番美しい笑顔で笑っていた。
今俺はエロスからタナトスへの橋を渡った。
あぁ、俺にとっての「死神さん」はジェルくんだったんだ。
目の前に差し出された手に自分の手を重ね、部屋を出て非常階段を2人で並んで登った。
今まで薄暗く見えていたこの階段も、今ではバージンロードのようだ。
見慣れた扉を開けるといつもと変わらないフェンスが現れた。
でも、今日は違う。
2人でフェンスを跨いだ。初めて見る、"こちら側"からの景色。
今思えば、あれは俺に自殺を止めて欲しかったのではなく俺が"こちら側"に来ることをずっと待っていたんだ。
お互いにキュッと手を握りしめる。
僕らはキスを交わして、夜へと1歩駆けだした。
〜Fin〜
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引用:夜に駆ける/Ayase https://youtu.be/x8VYWazR5mE
タナトスの誘惑/星野舞夜
https://monogatary.com/story/33826
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!