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第1話

引き留める。イラフィオ
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2019/08/14 01:14
朽ちた病院に響く耳障りなサイレン。それと同時に、体から疲れは消え力が戻ったように感じる。目隠しを少しずらして辺りを見回すと、近くで息を潜めている仲間に声を掛けた。
「行こう、フィオナ」
 自分と共に身を隠していたのは、祭司のフィオナだった。彼女は先程までハンターに追われていて、扉の鍵でどうにか撒いてきたらしい。綺麗に編まれていた三つ編みは解けてしまっていて、化粧した顔にも憔悴した様子が見える。
「あともう少しで脱出できる」
 疲れた様子の彼女に手を差し出すと、遠慮がちに白い指先が伸ばされた。手袋越しに触れる手は小刻み震えていて、彼女の儚い美しさを体現したようである。
「……君は、ここを出たら……何処へ行くんだ?」
 手を取り立ち上がらせようとするより先に、フィオナがいつもの落ち着いた声で口を開いた。俯いているので、どんな表情をしているのかわからない。
「普通に……元いた所に帰るだけだよ」
 相手の細い手に、少しだけ力が籠もった。まるで縋るように手袋を握りしめたまま、彼女は口を開かない。薄暗い室内に静寂が流れ、どこか遠くから骸骨紳士の鼻歌が聞こえた。ゲートが開いたのだろうか、後の二人はいつの間にか脱出している。
 お互いの呼吸しか聞こえないほどの無音の中、沈黙を破ったのはフィオナだった。
「――婚約者の元に、行くのか?」
 俯いていた彼女は顔を上げる。白い輪郭の中で揺れる深い紫の瞳には、溢れんばかりの涙が浮かべられていた。痛みを堪えるような表情で、今にも消えてしまいそうなか細い声が桜色の唇から零れる。
 その顔に思わず力が抜け、膝から崩れた。あの夜見た婚約者の涙に、あまりにも似ていたから。
「……あぁ、行かなきゃならない」
 こんな顔をさせてしまった原因に、いくら鈍感であろうと気が付かない訳がなかった。目線の高さを合わせ、心臓を引き裂かれるような痛みを隠して相手を見つめる。

   「だから」

 そう言おうとしたとき、体が押され
天を仰いだ。
 硬いコンクリートの床に背中を打ち付け思わず目を瞑る。瞼を上げれば、そこに目を隠していた布は無い。その代わり、自分を押し倒すフィオナの姿があった。
 頬にぽたりと垂れる冷たい涙。閉じられた口は、覚悟を決めたようにきつく結ばれている。
「行かないでくれ……っ」
 重ねられた手に一層力がこもり、振り払うことは容易ではないように思えた。解けた紅の髪が滝の様に流れ、彼女特有の澄んだ香りが鼻孔をくすぐる。
「……行かなきゃならないんだ」
 分かってくれ、と思いを込めた。明らかに瞳孔が大きくなる彼女。

「――駄目だ。行かせない」
 先程までとはトーンの違う声。その瞬間、首に痛みが走った。フィオナの白い指が、首を締め付ける。息ができない。
 抗おうとするも、涙に濡れる瞳を見ると、ひと思いに退ける事が出来ずにいる。苦しさに爪を立てるが、コンクリートの上では引っ掻くこともままならなかった。
「これで、君は……行かなくていいだろう?」
 狂気にも似た笑み。それでようやく躊躇うことをやめたが、そのときにはもう遅い。既に意識は遠くなり始め、目が霞んでいくのを感じた。唯一の武器であった眼が奪われていく。
「……ガー、ト………」

 婚約者の名前を呟けば、フィオナの目が紅く光ったように見えた。フクロウの蒼い瞳とは対照的な―――

『ここにいてくれ、永遠に。』

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