休みの日の午後。
隣の部屋から、ずっとピアノの音がしている。
曲ではなくて、2小節ぐらいを何度も行き来している感じだ。
これなに? バイエルってやつ? って、以前に聞いたら、ブルグミュラーだよって教えてくれた。
ピアノって、もっと曲弾くのかって思ってたけど、運指を確認しながら丁寧に、指を慣らしながら弾いていくんだって、初めて知った。
人によるだろうけどね、ってオマエは笑う。
思えば、ダンスだってそうだもんな。
少しずつ少しずつ振りを確認して、腕の角度、顔の向き、身体も脚も、調整しながら、いきなり流すようには踊らない。
そして、いつの間にか曲になっていくんだ。
オレは、ゲームしたり、料理したり掃除したり、動画を見たり、自由に過ごす。
漏れてくる音は、決してテレビの邪魔になるような大きさじゃない。
むしろ雨音みたいだ。
この音があるのが、オレにはもう、当たり前の日常になった。
何となく思いたって、ホットケーキミックス粉で、簡単ドーナツを作り出した。
牛乳と卵で溶いて、スプーンで掬い取って、ただ油で揚げるだけ。
サーターアンダギーみたいなゴロゴロの形で、いちいち穴が空いた輪にしない。
砂糖を振ったのと、塩を振ったのと作った。
オマエはこんなオヤツを喜ぶから。
「いい匂い」
振り返ると部屋から出てきたオマエが立ってた。
ドーナツの事だと思ったのに、オレのうなじに顔をうずめてきたから、洗った髪の事だってわかる。
後ろから体に回る長い腕が上がり、大きな手でそっとオレの顔に触れ、頬を撫ぜて顎に止まり……。
柔らかなキスを落としてきた。
エロさの無い、優しいキス。
胸に、じんわりと暖かさが広がる。
「揚げたて、食べる?」
「うん!
美味しそう!」
嬉しそうに笑ったオマエの、キレイな目を見てオレも笑う。
飲み物を用意して、キッチンテーブルでそのまま食べた。
特に何かを話すでもなく、お互いがそこにいる事に満たされて。
「あー、雨降ってる」
窓の外を見てオマエが言う。
「さっきから降り出したんだ」
「全然気付かなかった。
夕飯どうする?」
ドーナツをムシャムシャ食べながら言うからつい笑う。
「食べながらもう夕飯のはなし?」
「これはオヤツだもん」
「なんか食べたいものある?
雨で買い物行くの面倒だから、大したもの作れないけどなー」
オマエは、考えた顔をしてから、
「ある!」
ニヤッと悪い顔になったから、ドキッとする。
「……ダメ。
明日朝早いじゃん」
「えー?
すぐ終わらせるからさ。
何なら夕飯は宅配で良くない?
そんでその前にちょこっとさ」
コイツ!
オレが断れないの知ってて!
オレがねだった時は冷静にブレーキかけてくるくせに!
「昨日やったじゃん……」
「不思議だよねぇ。
してないとしないでいられるのに、するともっとしたくなるの、何なんだろ?」
オマエは指を紙ナプキンで拭いてから、口をぬぐった。
油で、濡れたように光る唇がなまめかしい。
いいよ、って言うのは恥ずかしいから、黙ってキスしに行った。
雨音が心臓の音みたいに響いてた。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!