第32話

雨の日 A(再録)
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2021/10/27 05:28






休みの日の午後。

隣の部屋から、ずっとピアノの音がしている。
曲ではなくて、2小節ぐらいを何度も行き来している感じだ。


これなに? バイエルってやつ? って、以前に聞いたら、ブルグミュラーだよって教えてくれた。
ピアノって、もっと曲弾くのかって思ってたけど、運指を確認しながら丁寧に、指を慣らしながら弾いていくんだって、初めて知った。
人によるだろうけどね、ってオマエは笑う。


思えば、ダンスだってそうだもんな。
少しずつ少しずつ振りを確認して、腕の角度、顔の向き、身体も脚も、調整しながら、いきなり流すようには踊らない。


そして、いつの間にか曲になっていくんだ。


オレは、ゲームしたり、料理したり掃除したり、動画を見たり、自由に過ごす。
漏れてくる音は、決してテレビの邪魔になるような大きさじゃない。
むしろ雨音みたいだ。


この音があるのが、オレにはもう、当たり前の日常になった。




何となく思いたって、ホットケーキミックス粉で、簡単ドーナツを作り出した。
牛乳と卵で溶いて、スプーンで掬い取って、ただ油で揚げるだけ。
サーターアンダギーみたいなゴロゴロの形で、いちいち穴が空いた輪にしない。
砂糖を振ったのと、塩を振ったのと作った。
オマエはこんなオヤツを喜ぶから。


「いい匂い」


振り返ると部屋から出てきたオマエが立ってた。

ドーナツの事だと思ったのに、オレのうなじに顔をうずめてきたから、洗った髪の事だってわかる。

後ろから体に回る長い腕が上がり、大きな手でそっとオレの顔に触れ、頬を撫ぜて顎に止まり……。

柔らかなキスを落としてきた。
エロさの無い、優しいキス。
胸に、じんわりと暖かさが広がる。


「揚げたて、食べる?」


「うん!
美味しそう!」


嬉しそうに笑ったオマエの、キレイな目を見てオレも笑う。



飲み物を用意して、キッチンテーブルでそのまま食べた。
特に何かを話すでもなく、お互いがそこにいる事に満たされて。


「あー、雨降ってる」


窓の外を見てオマエが言う。


「さっきから降り出したんだ」


「全然気付かなかった。
夕飯どうする?」


ドーナツをムシャムシャ食べながら言うからつい笑う。


「食べながらもう夕飯のはなし?」


「これはオヤツだもん」


「なんか食べたいものある?
雨で買い物行くの面倒だから、大したもの作れないけどなー」


オマエは、考えた顔をしてから、


「ある!」


ニヤッと悪い顔になったから、ドキッとする。


「……ダメ。
明日朝早いじゃん」


「えー?
すぐ終わらせるからさ。
何なら夕飯は宅配で良くない?
そんでその前にちょこっとさ」


コイツ!
オレが断れないの知ってて!

オレがねだった時は冷静にブレーキかけてくるくせに!


「昨日やったじゃん……」


「不思議だよねぇ。
してないとしないでいられるのに、するともっとしたくなるの、何なんだろ?」


オマエは指を紙ナプキンで拭いてから、口をぬぐった。
油で、濡れたように光る唇がなまめかしい。


いいよ、って言うのは恥ずかしいから、黙ってキスしに行った。


雨音が心臓の音みたいに響いてた。





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