一章 初めてのおつかいと、春色ランチ
あやかしが視えるようになったあの晩から、半月ほど経った。
私は、オーナーである青藍さんに、カフェの二階に部屋を用意して貰った。
鎌倉での新しい生活が、とうとう始まったのである。
あてがわれた部屋は、六畳ほどしかない和室だ。
部屋には水道やガスは通っておらず、トイレ・お風呂は共用。
食事は一階にあるカフェスペースでするという。
一見不便そうに思うが、まかないもつくし、そうでもない。
それに、畳の香りのする部屋は、案外、居心地がよかった。
私の部屋からは、入口近くの桜の木がよく見える。
ふと窓から外を覗くと、麗らかな春の空を背景に、木の枝を小鳥たちが調子よく飛び回っていた。
その枝先には、真っ白ふわふわななにかが止まっている。
その名も知らぬあやかしは、ひとつ目をぎょろりと動かして、小鳥たちを虎視眈々と狙っていた。
それがぱっかりと口を開けたところで、嫌な予感がしてそっと目を逸らす。
すると上空を、烏天狗が気持ちよさそうに滑空しているのを目撃してしまった。
この数日間、繰り返したひとり言。
あやかしが視えるなんて、夢であればいいと何度思ったことか。
しかし、鎌倉で過ごしている間中、異形の姿は私の視界の中に頻繁に現れ、現実を突きつけてくるのだ。
──はぁ。
憂鬱な気持ちをため息ごと吐き出して、ごそごそとタオルをタンスから取り出す。
引っ越しの荷物は大分片付け終わった。
ようやく、今日からカフェで働き始められる。
そうなれば、仕事の忙しさにかまけて、あやかしが視えることも段々と気にならなくなるだろう──。
顔を上げて、気持ちを切り替える。
そして、洗面所に向かおうと自室から出た。
すると、ちょうど洗面所から戻ってきたらしい朔之介さんと鉢合わせた。
頭から二本の角を生やし、首から手ぬぐいをかけて、少し乱れた浴衣を着た彼は、私を見るなり足を止めた。
拭ききれていない雫が、ぽたりと彼の白い頬を伝って落ちて行く。
今時、古風な恰好の朔之介さんを意外に思いながらも遠慮がちに挨拶をする。
すると、彼はみるみるうちに真っ赤になって、その場から数歩後退りした。
──それは、明らかな拒絶反応。
なにかやらかしてしまったかと、己の行動を振り返る。
挨拶に問題があったとは思えない。
ならば身なりだろうと、恰好を確認する。
しかし、私が着ているのは、どこにでもあるような部屋着で、別段変わったところはない。
けれど、朔之介さんはまるで奇っ怪なものを見てしまったかのように顔を引き攣らせて、じりじりと壁際に沿って逃げようとしているではないか!
勇気を振り絞って、朔之介さんに声をかける。
すると、彼はふるふると首を横に振って、君が悪いわけじゃないんだと、言葉を濁した。
朔之介さんはそう言うと、急ぎ足で自室に入って行ってしまった。
扉が閉まる音。
そして、彼の髪紐についた鈴の涼やかな音だけが、古びた廊下に響いていった。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。