むかしむかし、あるところに、偉大な魔術師様がいました。
魔術師様は、王宮のある首都から少し外れた森の中、アザレアの花が咲き乱れる野原にいました。
魔術師様には似つかわしくないと思ってしまう、小さな木の家に住んでいました。
周りのみんながもっと大きくて立派な家に住むといいと勧めても、『僕はここでいいよ。なんだかここは落ち着くんだ。』。そう言って微笑むだけでした。
魔術師様は、他の人なんかより、とてもたくさんの魔力を持っていました。
本当にたくさんの魔力を持っていました。
ですから、魔術師様は“記憶屋”を営んでいらっしゃいました。
記憶というものは、私たちには想像もできないほど繊細であるそうで、その魔術師様でなくては扱えませんでした。
下手に扱えば記憶は暴走し、形を保てなくなるのだそうです。
ですのに、魔術師様ときたらそれをいとも簡単にやってしまわれるのですから、私たちも「ああ、魔術師様だ」と思ってしまうのですよ。
さて、“記憶屋”とはいったい何のお店なのでしょうか。
それは、その名の通り、記憶を操作するお店です。
嫌で嫌で仕方のないような記憶を取り除き、忘れさせることができたり、逆に、一生叶わないであろう身の丈に余る夢を束の間現実のものにすることができるのです。
『記憶を消してもらいたい』と言って魔術師様のもとにやってくるお客様はごく稀でありましたけれども、反対に、『夢を見せてくれ』、そう言って魔術師様のもとを訪れるお客様はたびたびおられました。
舞踏会や賭け事、ブティックなど平民には到底行けないような場所に行った気分になれるのです。
あくまでも、夢、なのですけれども。
“記憶屋”は、昔でこそとても人気がありましたが、少し時間が経ちますと、皆うさん臭いと言って行きたがりませんでした。
“記憶屋”など噂話だと言われるほどに。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!