騒然とした教室内。
保健室から戻ってきた慧と玲は、一時限目開始のチャイムが鳴るギリギリに席につき、ほっと一息つく。
慧は改めて教室を見回してみる。
わちゃわちゃした男子の集団。軽やかに笑い合う女子の集団。
もうすでにグループはできているようだ。中学生が一人で生活をするのはかなりきつい。
だからこそ慧は、同じクラスに玲がいることが本当にありがたいと感じていた。
取り残された者に注がれる視線は、そこまで暖かくはない。
チャイムが鳴り、面倒くさそうに生徒たちが席に着く。チャイムが鳴る前に席についているのはほんの数名。
その他多数は、学校という生活の場でネットワークを築くのに必死だ。少しでも仲良くなり、取り残されないようにグループに属するのだ。それが一番安全な学校生活を送る方法の一つであるから。
数分後、担任が教室に入ってくる。
目じりの下がった、雰囲気の柔らかい男の先生だった。慧はとりあえず優しそうな人で良かった、と胸をなでおろす。女子たちはヒソヒソと「えー、ブサイクじゃーん」と話している。教師の悪口に同調するのも、生き残るための術だ。特に女子のグループでは、意見を肯定することが大事なんだ。慧の昨年のクラスメートが言っていた。それが正しいのかどうかは分からないが、少なくとも彼女は肯定することで平穏な学校生活を送っていたようだ。
(肯定とは、否定の反対の意味)
慧はちらっと玲の方を見ると、むすっと不機嫌そうな顔をしているのが分かった。
以前言っていたが、玲は陰口が嫌いなのだ。コソコソしてるのが気に食わないのだという。慧はそんな玲を尊敬している。まあ、玲は馬鹿なだけなんじゃないかなんて思ったりもしているが。正面からぶつかることしか方法が思いつかないんじゃねえの?とからかってみたこともあったが、玲は「馬鹿じゃねえし!!」とふてくされていたっけ。
昔のことを思い出して、慧は思わず頬が緩んだ。あわてて真面目な顔を繕うが、胸の奥が少し暖かくなったことまでは誤魔化せなかった。否、誤魔化す必要もなかった。
物思いにふけっていたら、気が付けば担任の話は終わっていた。
この後何するかも聞いていなかったために少し焦るが、こんな日常でさえも愛おしく感じる。
今年こそは、病欠を少なくしたい。きちんと学校生活を送って、中学生を満喫したい。放課後に友達とカフェに行ったりもしてみたいし、ゲームセンターだって行きたい。今までやれなかったことをやりつくしたい。
そんな欲求にかられて、妄想を頭の中で繰り広げては夢が膨らんでいく。
どうでもいいなんてあり得ない、大切な日常。そして人生。
そう、どうでもよくなんかない。そういえばどうして自分は倒れたとき、全部どうでもいいと思ったのだろう?
何を諦めようとしていた?すべて?人生そのものだろうか?
思い出せない。
頭に霧がかかったようで、そう感じた理由が分からない。
慧は焦っていた。
この感情がどこからわいてきたのか確かめたくてしょうがなかった。このまま放っておいたら、どうでもいいという思考が膨らんで自分を飲み込んでしまうのではないかという不安に押しつぶされそうになっていた。
無意識のうちに親指の爪を噛み始め、冷や汗が伝う感覚を感じていた。
慧の様子がおかしいことに気付いた玲は、小声で声をかける。
慧の声は震えていた。
知らない間に慧の爪はボロボロになり、慧自身も驚いた。
まだ、自分が強い不安に襲われたときにしてしまう癖だとは気づいていない。
慧は寒気が走っていたが、変に心配されるのも嫌なので不器用に笑って見せた。
まだ休み時間ではないため、それ以上の追究はされなかったが、まだ心配されているのだろうということは分かっていた。
慧はただ早くチャイムが鳴ることを祈り続け、うわの空でボーっとしていた。
キーンコーンカーンコーン。
長かった。ようやくだ。
そう思うと慧は、玲が自分を呼び止める声を背中で聞きながら逃げるように教室を出た。
これ以上追求されたくなかった。玲の心配そうな目を見たくなかったのだ。
この時間の屋上は基本的に誰もいない。
一人でリラックスするには最適の場所だった。
慧は早歩きで階段を登り、少し息を切らしながら屋上の扉に手をかけた。
ガコッ。ガタガタッ。
開かない。前までは開いていたのに。
さすがに生徒だけで入るのは危険だと判断されたのだろうか。
慧は大きめのため息をついた。
これじゃ休めない。どこへ行こうか頭を悩ませる。
なぜだろう。
あんなに楽しみでしょうがなかった新学期が、始まってみればこんなにかったるく感じる。
玲に質問攻めにされたくないことだけではない。それだけでこんな気分になりはしない。
どうしてだるいんだろう。なんで教室に戻りたくないんだろう。
考えることが多すぎて、頭が上手く回らない。
慧は膝を抱えて、腕の中に顔をうずめた。
手で着ているニットを掴む。
どうしようもなく苦しくなって、目をかたく瞑る。
何も見たくない。現実など忘れてしまいたい。そう、どうでもいい・・・・
思考がまとまらない。
もはや自分が何を考えているのか分からなくなってきていた。
どうしよう。どうしたらいい?
知らない声だ。
急に声をかけられて、肩がびくっと震える。
誰か分からない声の主の顔を見ようと、恐る恐る顔を上げる。
関西弁が混じった口調。
初めて会う人だ。どうしてここにいるのだろうか。
朗らかな声。
どうしてここにいるのか、とか思わないんだろうか。慧は目の前のその人のことが不思議だった。
どこか掴めないような人だ。
気の抜けた返事を返して、たどたどしく自己紹介を返す。
その間、荒川という人はニコニコしながら慧を見つめていた。
視線が向けられるのはあまり得意ではないが、不思議なことに荒川先輩の視線は嫌な感じがしなかった。
急にこの人は何を言い出すのだろう。
今会ったばかりなのに、そんな知ったようなことを言う。
だがその言葉は不思議と己の中で納得できるもので、的を射ていた。
なぜ分かってくれるの?と聞きたい気持ちを懸命にこらえた。
荒川先輩はそう言ってニヤッと笑った。そして慧の隣に腰を下ろすと、当たり前のようにジュースを飲みながらスマホをいじりだした。
何なんだこの人は。何でもないような顔して授業サボろうとしてる。
呟くように荒川先輩が言った。
慧はうつむいて、手のひらに爪を立てながら答えた。
スマホから顔を上げた荒川先輩は、またあのニヤッとしたような笑顔で手を振った。
慧はお辞儀をして、教室に向かって走った。
なぜか胸が痛くなる。教室に行かないとと考えるたびに、苦しくなる。
・・・でも、サボるなんてできない。きちんと中学校生活を満喫すると決めたのだから。
きっと、苦しくなったのは気のせいだ。今日は体調が悪かっただけ。そう、それだけだ。
慧は必死に自分に言い聞かせながら、教室へ通じる廊下を走った。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!