深夜3時、秋は自室でパソコンの画面と向き合っている。
彼は、ネットで有名な絵師、「Rui」の顔を持っている。時に幻想的で淡い画風だったり、メリハリのついたキャラクターを描いたり、様々な技術を持ち人々を魅了している。
彼には沢山の依頼メールが届き、それらを有償で引き受けて仕事をしている。まだ18歳という若さにも関わらず、その人を惹き付ける絵は、多くの人に支持され憧れられているのだ。
そして、依頼メールの一部を確認しているとその中には、今動画投稿サイトで爆発的に伸びている歌い手グループ、「Dolphin」からの公式依頼があった。動画投稿サイトでのチャンネル登録者は200万人を突破し、数々のライブツアーを行うほどのグループだ。
秋ももちろん知っているグループであるから、驚きは隠せなかった。
引き受ける旨を伝えるメールを送り、一息つくためにリビングに移動する。
この日はすでに5時間は作業しており、根を詰めすぎると何も出来なくなることを痛感している秋は、だらっとソファーに寝転がる。
体を横にすると、どっと疲れがきて、ついそのまま眠ってしまった。
しばらくして、二階から誰かが降りてくる音がする。その人はリビングで、ソファーで寝ている秋を見つけてため息をつく。
そして疲れた様子で椅子に座ったのは、秋の双子の弟である樹だ。
樹は顔に疲労をにじませながらも立ち上がり、ふらつきながらも秋の側に行って肩を揺らす。
樹が態勢を変えると、大きくふらついて倒れそうになる。
思えば、起きてからほぼ何も食べていない。秋からもらったお菓子を少し口にしたぐらいだ。
重たい体を引きずって、冷蔵庫を見る。
すると、樹が部屋にこもるせいで久しく一緒に食事をしていない親が、タッパーにおかずを詰めておいてくれていた。
シチューに二日目のカレー、唐揚げにサラダチキン。どれにしようか迷っていると、背後で秋が起きた。
樹と比べて秋は顔色がいい。
秋は前に、今の樹のように体の事を考えず作業して体を悪くしたことがあり、それ以来は休憩や食事、睡眠をとるようにしているのだ。
そうは言っても、普通と比べればまだ不健康ではあるが、体が元気なおかげでハイペースで絵を描けるようになっている。
いそいそとカレーをお皿に移し、電子レンジで温める。
樹も唐揚げを選び、温めるのが面倒くさいのでそのままモソモソと食べている。
ゴォオオ…と電子レンジが作動する音を聞きながら、樹はため息をつく。あんまり食欲がないので、唐揚げを二つ口に押し込むのが限界だった。
そもそもリビングに降りてくることも久しぶりだ。食事は時々、夜明けにおにぎりを食べるぐらいだったから、家族は樹の姿を見ることすら出来ていない。
樹はぼーっとしていて聞いていない。
秋は何度か話しかけてやっと反応した樹に、心配そうな目を向ける。
説教をしてやるつもりが、つい感心してしまう。まだ成人もしていないのに、そんな風に言えるなんてすごいなぁ…って、そういう問題じゃない。
樹は心の中で舌打ちする。
ああそうか、この兄はさっき肩を揺らされたとき起きてたんだ。その後にふらついたのを見てたんだ。
こうなっては兄は引き下がらない。離してくれないだろうな、と樹は半分諦める。
秋は熱弁する。
樹も知っている、秋が狂ったように仕事をして、どんどん痩せて顔色も悪くなって、別人のように仕事をしていたことを。
そして、今の自分がその時の秋と近しい状態であることも分かっている。
だが、自分と秋は違う。
秋は、天才なのだ。小さい頃から絵が上手くて、本人はただ描いてるだけなのにどんどん上手くなって、プロレベルに到達するのも恐ろしいほど早かった。
でも、樹は違った。何となくやるだけでは、何も出来なかったし身に付かなかった。兄と肩を並べるために、死に物狂いで努力した。
周りに「あの秋の弟」としてではなく、「樹」として見てもらうために必死で頑張った。
兄と同じ分野では絶対に勝てないから、と動画制作を選択した。秋は完全に独学で技術を得たが、樹は講習会にも行ったし教室にも通った。自宅でもずっと練習して、やっとのことで自分を高めてきたのだ。
ここで休んでしまったら、技術が衰えてしまうのではないか。依頼する人がいなくなってしまうのでは…という恐怖が樹の頭のなかを支配している。体が限界なのは分かっていても、常に努力し続けなければ…。
樹は秋に背中を向けて、二階の自室へ戻っていく。ふらつきそうになるのを、手すりを掴んで阻止する。納期が迫っているから、早く作業をしなくては。
秋が休んでいる間は、まったく絵を描いていなかったが復帰後の絵は見違えるぐらい生き生きしていた。体調が整ったことで、最高のパフォーマンスを引き出せるようになったのだ。
でも、自分は違う。天才とは違うから、休めば逆にパフォーマンスが下がってしまうかもしれない。
それが怖い。
樹は体のSOSに見て見ぬふりをして、再びパソコンに向き合って作業を再開する。
一方、リビングに残された秋は、頭を悩ませていた。
樹をこのままにしておけば、体調がさらに悪化して取り返しのつかないことになるかもしれない。かつての自分のように、体も心もボロボロになって……。
あの時自分は、何かにとりつかれたかのようで、絵を描いていないと存在意義が分からなくなりそうだったのだ。
SNSに絵を投稿し、認めてもらうことで自分自身を認めていた。描かなければ自分には何もないような気がして。
入院沙汰になったのだが、見舞いに来てくれた涼にどれだけ救われたか。
ん?そうか、涼に…理解者に、友人に救われたのだ。樹は頼れる人はいるのだろうか?心を許せる、自分を認めてくれる人が。
秋は考え込む。
支えと言えど、何が樹にとって支えとなるのか、救いになるのか分からない。
親かもしれないし、友かもしれないし、もしかすると兄である自分かもしれない。
彼を救うにはどうすれば?
秋は考えているうち、いつの間にかテーブルに突っ伏して眠っていた。
朝仕事に出かける父が毛布をかけてくれたことに気づいたのは、昼だった。
秋はふと思い付いて、涼に『今日あいてる?』とメッセージを入れる。
涼に聞けば、何か手掛かりが掴めるかもしれない。他でもない、秋の救世主に。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!