慧は教室までの距離を走っていた。
不思議な先輩と出会い、言われたことに動揺していた。無理しなくていい、ってなんだろう。何に対して言っていたのだろう。自分は今、無理をしているのだろうか。
そんなことはないはずだ。心から楽しみにしていた学校生活ではないか。クラスには玲もいるし、快調な滑り出しのはずだ。
慧はため息をつきながら、チャイムが鳴り終わるギリギリに席についた。
初日から走ったりするから咳が出た。きっとこれも一時的なもので、授業中座って安静にしていれば問題ないだろう。
玲はどう思うだろうか。楽天家に見えて実は心配性だったりするから、変に心配をかけていないといいが。
玲は一人頭を悩ませていた。何もできない無力感に潰されないように、なんとか自分に出来ることを探そうとしていた。
しかし、玲は医療の知識があるわけでも何でもない。慧の状態が普通なのか悪いのか、判断がつかないのだった。
教師の声は彼らの耳には届かず、思い思いの考えにひたっていた。
あれほど受けたかった授業も上の空だ。過去の慧がそれを知れば、自分自身を叱咤するに違いない。
キーンコーンカーンコーン
やっとチャイムが鳴った。長いような短いような授業時間を、慧はほとんど考え事をして過ごしてしまった。小さくため息をついて、椅子に座りなおし缶コーヒーを傾ける。慧のお気に入りでもある微糖カフェオレはあっという間に飲み干される。慧はブラックも好きだが、ついつい微糖カフェオレを選んでしまうのだという。
玲は努めて普通に、しかしぎこちなさが隠れていない声で聞いた。
やはり心配されていたか。慧はとっさに表情を取り繕い、薄く笑って見せた。
玲は腑に落ちない表情で自分の席へ戻っていく。
慧はほっとしつつも、残りの授業に向けて気合を入れなおした。まだまだ一日は長いのだから。
昼食時間。
午前の授業が終わり、疲れ始めた生徒たちが昼食をとりはじめる。教室で弁当や持参したご飯(そのうちの多くはコンビニ飯である)を食べる者もいれば、カフェテリアで昼食をとろうと移動するものもいる。
慧は久しぶりにカフェテリアのご飯が食べたかった。メニューは増えたのだろうか?というか、どういう味だったっけ。基本的に健康食しか食べてこなかった慧には、カフェテリアはまだまだ未知の世界だった。
好きな物を頼み、食べられることが嬉しく、楽しみでしょうがなかった。昼食の時間になると、少し沈んでいた慧の気分はかなり良くなっていた。
マンガに出てくるような、血色の良いカフェテリアのおばさんに注文を伝え、席を探して小さく座る。どうにも慣れていない空間は苦手で、内心少しビクビクしている。
創に助けられた、と慧は心から感謝していた。当たり前のように自分の隣に座ってくれる。自分の友達だっているだろうに、慧が居づらそうにしていたらすぐ気づいてくれるのだ。
創の家では、出来合いの物が食卓にならぶことが多かった。コンビニ弁当に、いくつかの総菜が置いてあるだけ。両親が共働きで異常なまでに忙しく、家事に割く元気がなかったそうだ。やらなきゃと思っても体が動かず、帰ってきたら着替えもせずに寝てしまったこともあったとか。
基本的に創は家で一人だったから、よく慧の母が手作りした料理をお裾分けしていた。人が作った料理を食べる創の顔はとても嬉しそうで、大事に大事に食べるものだから慧の母はそんな創が不憫でならなかったそうだ。
コンビニに頼った生活は今も続いているようで、美味しいからとついついコンビニで夕飯を買ってしまうのだという。コンビニ飯は美味しいが、慧は創の身体が心配でしょうがなかった。人一倍健康には気を遣っていたために、やはり気になってしまうのだ。
創は「せっかく慧ママの美味しい料理が食べれると思ったのにー」とぶつくさ言うものの、自炊の必要性は分かっているようで慧の申し出を快諾した。
そんなやりとりをしているうちに、二人のご飯が出来上がり、いろんな話をしながらゆっくり食べ進めた。小食気味な慧には量が多く、仕方ないなと笑いながら創が食べてくれた。
空になったお皿を載せたおぼんを返却し、充足感を感じながら自分の教室へ戻る廊下を進む。
慧と創の教室は離れている為、じゃあここで、と慧が言おうとしたその時だった。
慧は、廊下の真ん中で立ち止まってしまった。
創が不思議そうに慧の顔を覗き込む。
慧の足は廊下に張り付いたかのように動かなくなってしまった。あと少しで教室なのに、教室の方へ体が動かないのだ。
創が話しかけても、まともな返答は返ってこない。
慧自身も、この不可思議な状況に戸惑い、どうしたらいいのか分からなくなっていた。
慧は自分が置かれている状況が何なのか理解できず、頭が混乱していた。
ぐるぐる考え続けていると、脳のキャパシティを超えてしまい最早何も考えられなくなった。
どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。なんで?どういうこと???
慧は苦しそうに目をつむり、下唇を強く噛みながら頭を抱え、しゃがみこんだ。
慧にできることはそれぐらいしかなかった。強く噛みすぎて出血している下唇。
慌てている創の声。
ああ、何も分からないのなら何も聞きたくない。見たくない。
慧はそのまま、本能的に意識を手放した。
編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。