案外、栞を渡すタイミングは早くやってきた。
2日後の水曜日。
いつものように学校へ行こうと扉を開けたタイミングでまた、右隣の301号室の扉が開いた。
調べたところによればこの人の名前は『田中 雅功』と、いうらしい。
私はいつ会ってもいいように財布の中に栞を入れていた。
そっと栞を渡すと、
と、満面の笑みを浮かべ田中雅功は受け取った。
エレベーターに乗っても話は続く。
この人も、朝から元気なタイプか。
苦手だ。
ヘぇ〜と感心した後に、田中雅功はこう続ける。
しまった。
昔の作家さんが好きとか言わなきゃよかった。
面倒臭い。
こう言っておけばとりあえずこの場はなんとかできるだろう。
エレベーターが1階につき、田中雅功との会話はそこで終了した。
田中雅功とはまた、オートロックを出たところで別れた。
それからは夏目漱石の『三四郎』を片手に、いつも通り学校に行く。
いつも通り校門で軽く会釈をして、
いつも通り授業を受ける。
いつも通り誰と話すわけでもなく今日の学校生活が終わった。
1人、ポツリと呟きながら家の扉を開け、部屋着に着替える。
学校の課題を済ませ、軽く掃除機をかける。
だんだん陽が沈んできて、部屋の中も薄暗くなってきた。
冬に比べ、少しずつ明るい時間が長くなってきたな。と、カーテンを閉めながら思う。
電気をつけ、『三四郎』を読み始める。
しばらく時間が経ち、きりの良いところで本を閉じる。
夕飯を作り、テレビを見ながら食べる。
1年ほど前に劇場で公開されていた映画が放送されていたが、どうしても言葉や表情の1つ1つを演技としてしか感じることができず、物語が頭に入ってこなかった。
30分ほどでバラエティーにチャンネルを変え、ぼーっと眺めながら焼き魚を食べた。
夕飯を食べ終え、『三四郎』を読もうとした時、玄関の外からドサッと、何かが落ちたような音が聞こえた。
ビビッと体に緊張が走る。
何かが落ちてきたの?
え、でも落ちるって何が?
恐る恐る覗き穴から外の様子を確認する。
見た所、外に異変はない。
しかし、まだ油断はできない。
人は何をしでかすか、わからないのだから。
ゆっくりとドアを開ける。
やはり異変はなかった。
そこにはいつもと変わらない景色と外廊下があるだけだった。
とホッとしていると、開いたドアの向こう側から、「ドサドサッ」っと何かが崩れ落ちる音がした。
びっくりしすぎて変な声が出てしまった。
再び、恐る恐る開いたドアの向こうを覗いてみる。
そこには大量の本が散らばっていた。
ざっと20冊くらいだろうか。
きっとドアの前に積んで置いてあった本を私がドアで崩してしまったのだろう。
やってしまった。
301号室側に置いてあったので、きっとそこの人の本だろう。
なんでここに置いてあるのかはわからないが一応綺麗に積み直しておこう。
そう思い整理しようと本に手を伸ばす。
だが、散らばった本の中に1冊、他の本と様子が違う物があった。
小説の表紙に付箋が貼ってあるのだ。
そこにはこう書かれていた。
『302号室さんへ 今朝言っていた、僕のオススメの本です!良かったら読んでみてください!返すのはいつでも大丈夫です! 301号室 田中雅功』
私がこれをみて最初に思ったことは、
ということだった。
人の部屋の前に勝手に本を20冊も置いていくのはどうかと思うが、まぁ、貸してくれるというのだから一応目は通しておこう。
20冊を部屋の中へ運び入れる。
そしてタイトルに目を通していくが、私は驚いた。
全部知らない小説だったのだ。
私はこれまでいろんな作品を読んできた。
同世代の中では1番だと胸を張れるほど。
なのに、読んだことのない、ましてやタイトルを聞いたこともない作品がほとんどだった。
この本なんか、作者は有名なのにこんな本があるなんて聞いたこともなかった。
まだまだ私の知らない本の世界があることに感動を覚えた。
だがしかし、内容が面白くなくては意味がない。
試しに1冊、短編小説集を手に取り一編だけ、読んでみることにした。
そしてその40分後、
気づけば私は1冊を読破していた。
すごい。
面白い。
周りの音が何1つ聞こえなくなってた。
私は急いで部屋を飛び出し301号室のインターホンを押した。
そう言いながら出てきた田中雅功に、
あれ、私何してんだろう。
衝動でこんなことを言いに、すごい勢いで来ちゃったけど、普通に考えておかしいよね…。
すると田中雅功は笑い出した。
そしてこう言った。
私が素に戻りおどおどしていると、
田中雅功は不思議そうな顔をして言う。
この出会いが私の人生を変えるものだとは、この時私は想像もしていないのであった。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!