夜しか開かない釦の店は、静寂の中で柔らかい光を放つ。昼間はただの古い肉屋。
住宅街の端にひっそりと佇むその店は、看板が傾き、窓ガラスには小さな傷が幾つも刻まれている。
昼間に通りかかっても、入ろうと思う人は少ない。
だが夜になると、店の明かりが遠くからでも
ほのかに見え、安心感を与える。
その光に誘われるように、夜の客がやってくるのだ。
最初は普通の人間に見える。
スーツ姿の男。
買い物袋を持った女性。
どこにでもいる顔。
しかし釦には、ほんの少しだけ見え方が違う。
釦はいつも通り接客する。
丁寧に肉を計り、注文を正確にこなし
声のトーンも穏やかに保つ。
見た目だけなら、普通の肉屋と変わらない。
しかし釦は昔から、人の形の微妙な違和感に気づいていた。輪郭が合わない、影の数が足りない、笑った口の奥が妙に深い。普通の人間には見えないものが、彼には見える。慣れている。驚かない。それに、肉屋だから。
客がショーケースを覗き込む。
冷たいガラス越しに、切り揃えられた肉が並ぶ。
その並びには規則性があり、光に照らされる表面は滑らかだが、どこか冷たく、釦にはその冷たさがわかる。
「今日は何がいいんだい?」
と釦は尋ねる。
本当はもう決まっている。
今日出す肉は、肩肉だ。
客はそれを口に出して尋ねることもない。
ただ釦の動きや声の微かなニュアンスで
安心感を得るのだ。
「今日は肩がいいですよ」
客は嬉しそうに頷き、口角をわずかに上げる。
その微笑みの奥に、微かな温度差があることを、釦は見逃さない。釦の肉は評判がいい。
味の話ではない。
安心の話だ。
誰のものか分からない肉ではない。
それを客は暗黙のうちに理解している。
だから笑う。
「釦くんの肉は安心する」
客がぽつりぽつりと微笑みながら話す。
釦も微かに笑う。
営業スマイル。
声にわずかに影が落ちる。
「ええ、ちゃんと"人のもの"ですから」
客は一瞬黙る。
[ あぁ、ちゃんと新鮮ですよ。
なんせ生きたままだからね。]
[ …うん ]
しかし、それ以上は何も言わない。
大抵の客はそうだ。
聞かないほうがいいことを、彼らは知っている。
釦は包丁を置き、布で刃を拭く。
その動作は正確で丁寧。
雑な仕事はしない。
それは普通の肉屋以上に、真面目かもしれない。
だから客はまた来る。
夜になると、また誰かが扉を開け、鈴の音が柔らかく響く。釦は顔を上げる。それだけで、特別なことは何も起きない。
[ 釦くんって人間なのになんで俺らが見えんの? ]
周りに浮遊している目らしきものの視線を感じる。
[ うーん、何故でしょう。]
めんどい客だなぁ、なんて思いながら話を拾う。
[ 俺らみたいな異物は人間に
見られることはないのに ]
[ 釦って言う異物だったりして ]
はははと笑う客。
[ それは如何でしょう笑 ]
コイツの肉は価値も無いだろうな
◉
◉
夜の空気は冷たく、街灯は揺れ、影は長く伸びる。
店内の光は温かく、外の寒さや孤独は、この小さな空間に入った瞬間に薄れる。しかしその温かさは幻のようで、釦にはすぐにわかる。
客は安心する。
それは幸福かもしれないが、同時に現実から切り離された錯覚でもある。釦にとってはそれで十分だ。
寄り添うようでいて、心の距離は常に保つ。
誰かを救おうとしているわけではない。
幸福を与えようとしているわけでもない。
ただ、現実の痛みから一瞬だけ切り離す。
それだけの仕事。
釦は黒い袋から次の肉を取り出す。
手触りは生温かく、柔らかい。
肉の匂いは微かに甘く、しかし決して鼻につかない。
黒い袋をバックにしまい、次の客に手渡す。
口に運ぶと、肩や背中の力が抜け、呼吸が少しだけ楽になる。釦は背後から観察する。
寄り添うようで、突き放す。
客の表情。手の動き。まぶたの揺れ。呼吸のリズム。それらすべてが、微妙な違和感と共に釦の目に映る。
◉
◉
◉
夜は深く、静けさが増す。店内に響くのは、包丁で肉を切る微かな音、布で刃を拭く摩擦音、そして時折聞こえる外の街の音だけ。
遠くで犬が吠え、靴音がかすかに響く。
店のベルがチリンとなる。
少年がフードをかぶってコチラを見つめていた。
釦は[ それ ]をすべて意識する。
人間の形の歪み。
影の数の欠落。
口元の奥行きの妙な深さ。
普通の人間には見えないものが、釦には見える。
それでも釦は動じない。
慣れている。
売る側でいる限り、怖くはない。
[ いらっしゃい。何が良いんだい?]
無視。
コイツに合う肉を見繕う為、姿を目に焼き付ける。
肉を切り分け、皿に載せ、包装紙に包む。
それを少年は黙って受け取り
軽くお辞儀をして去っていく。
鈴の音がまた鳴る。
釦は顔を上げ、次の客を待つ。
夜の店は静かで、光と影だけが動く。
釦は黙々と作業を続ける。
寄り添うようで、突き放す。
これがこの店の常であり、釦のリズムであり
世界の形なのだ。
◉
◉
◉
時間がゆっくりと流れる。
外の闇は濃く、街灯の光は微かに揺れる。
釦は店内の温度と空気の微妙な変化を感じ取る。
包丁の感触。
肉の感触。
布の感触。
それらがすべて、釦のリズムを作る。
肉を受け取る客の微かな呼吸。
肩の力の抜け方。
目の奥の温度。
すべてが釦に見えている。
普通の人間には分からないことだ。
釦は黙々と働く。
寄り添うようで、けれど突き放す。
客は去り、夜は深くなる。
外の空気が冷たく、街角の影は長く伸びる。
釦は黒い袋をバックにしまい、静かに次の作業に取り掛かる。この夜の店の営みは、何も変わらず、しかし絶えず微妙に揺れている。
客の微かな違和感、幸福と狂気の混ざった表情、それらすべてが、釦の目に映る。
釦はそれを淡々と観察する。
夜が更ける。店内の光は静かに揺れ、釦の動きもまた一定のリズムで繰り返される。
包丁を握る手、肉を切る手、黒い袋に入れる手、客に渡す手。すべてが精密に、しかし自然に繋がる。
釦は微笑むこともあるが、表情の奥には静かな冷徹さがある。寄り添うようで突き放す。
その距離感はこの店のすべてであり、
釦そのものなのだ。
夜の静けさの中で、店は存在を主張するわけでもなく、ただそこにある。釦もまた、存在を消すわけではなく、しかし誰かに認識される必要もない。
ただ黙々と、肉を切り、黒い袋に入れ、客に渡す。
幸福の片鱗と微かな違和感を残して。
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夜の終わり、最後の客が去ったとき、釦は店内を見回す。冷たい空気、光の揺れ、残った影。
静寂が広がる。釦は包丁を置き、布で刃を拭き、黒い袋を整理する。夜が明ける前の、静かで不穏な時間。
釦はそれを楽しむ。
寄り添うようで突き放す、自分だけのリズム。
今日もまた、何も変わらず、この夜は終わる。
まだこの立場で居る限り何も怖くない。













編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!