第161話

軌跡②
2,583
2019/05/02 12:13


 彼女は恥ずかしそうにしていた。横になっていた理由はわからないけど、可愛い反応が見れたので気にしないことにした。
 彼女は、コーヒーを美味しいと言ってくれた。それに、懐かしい味がするとも。彼女の中にある味覚は、僕を記憶しているのかもしれない。
 それから、彼女は、僕の両親をことを訊いてきた。僕は、ありのままの事実を伝えた。記憶を失う前、杏奈は僕の生い立ちや家族のことを訊いてこなかった。訊かなかったのではなくて、訊けなかったのだろう。
 記憶を失う前、杏奈は言った。
「過去なんて、重要じゃないよ。今があればそれでいい」
 たぶん、彼女なりの気づかいだったのだろう。彼女はなんとなく気づいていたのかもしれない。僕に身内と呼べる人間がいないことを。だから、こんな形で僕のことを杏奈に知ってもらうことができてよかった。
 僕は、彼女がそばで笑っていてくれるだけで幸せだった。たとえ、記憶を失っていても。
 おかわりの意向を確認したあと、僕は席を立った。彼女も、すぐに立ち上がった。
「岡田さん、お手洗い借りてもいいですか?」
「うん。つきたあたりを右にいって、それから」
「だいじょうぶです。知ってます」
 意味がわからなかった。
「え?」
「え……ぁ、れ? わ、私、何言ってるんだろう。あはは、ごめんなさい」


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