昏睡状態から杏奈が目覚めた。涙ぐむ僕に、彼女は言った。
「あなた、ダレ?」
冗談かと思った。そうじゃないとしてもすぐに思い出すだろう、と思った。
僕は、自分のことを説明した。僕が杏奈の恋人であること、結婚の約束もしたこと。今の状況を事細かに教えた。
結果、彼女はパニックを起こした。
彼女の記憶から、僕は消えていた。すべての記憶を失ったわけではない。自分のこともわかるし、まわりの状況も把握していた。
職場の人間も、友人も、同じジムに通う浩太でさえもーー。ただ、僕という存在だけが、きれいに切り取られていた。
医者から呼ばれて、ふたりきりで話した。苦虫を噛み潰したような顔を、医者はずっと浮かべていた。
「極めて珍しいケースの記憶喪失です。恋人のことだけを、忘れてしまうなんて。トラウマになるような出来事があったり……そんな心当たりはありませんか?」
僕は、よくわからない、と答えた。
「自然と失った記憶を思い出すこともあるかもしれません。ですが」
そして、医者はつづけた。
「二度と、あなたのことを思い出さないかもしれません」
杏奈が目覚めてから、僕は面会を禁じられた。僕の顔を見て、彼女がふたたびパニックを起こさないようにするためだ。彼女にとって、僕は他人だった。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!