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第1話

幼稚園~小学校低学年
自分は中国地方の県で生まれた。
母親は、脳腫瘍の後遺症で左半身が麻痺しており、病院でリハビリをしながら性格していた。自分が小学二年生の時まで杖を着いて歩行していた。
父親は特に病弱だった訳では無いが、ある時病院で膵臓癌のステージ4だと診断され、医者からは余命半年の宣告を受けた。それからは父親は総合病院で入退院を繰り返しながら生活していた。

その後自分は幼稚園に入園した。
自分はその頃の事を鮮明に覚えている訳では無いが、母親いわく、自分は泣き虫でお人好しな性格だったらしい。それ故に、周りの幼稚園児からは除け者にされる事が多く、喧嘩も弱かったため、いつも同い年の子供から殴られてはやり返せずに毎回「また仲間はずれにされた」と泣きながら幼稚園バスから降りてきていたらしい。自分はその頃から幼稚園が嫌いだったのははっきり覚えている。

その後自分は近くの小学校に入学した。やはり小学生に入学した後も、自分はクラスには馴染めなかった。けれどある日一人の男子が自分に話しかけてきた。いつも一人でいる自分を見て話しかけてくれた様だ。正直自分は初めて友達が出来た気がして嬉しかった。

しかし、その後自分の父親の病状が悪化し危篤状態となり、入学して1週間で父親の実家のある九州地方に転校する事になった。初めて出来た友達と話せたのは2日間くらいだった。自分は初めて出来た友達を2日後に失った。それでも、初めて友達を作れたという経験は、自分の中ではかなりの自信となっていた。「友達を作ることは出来たのだから、九州地方でもうまくやれる」とこの頃はそう思っていた。

九州地方の小学校に転校して、自分を待っていたのは自分が想像していたよりも遥かに過酷な環境だった。九州地方の子供は元々気性が荒く、よそ者を受け入れたがらない性質があり、そこまで幼稚園の頃に、幼稚園特有の「みんなで仲良くしましょう」みたいな綺麗事はそこまで教えられていないようだった。そんな中に自分の様な友達すらまともに作れない泣き虫野郎が転校して来るのだ。当然自分はクラス内で孤立し、すぐにいじめの標的となった。最初は暴言から始まり、そこから暴力に徐々にエスカレートしていった。自分は何故転校した先でいきなりいじめられているのか理解出来なかった。

そんな中で、父親が遂に亡くなった。
転校して来て1ヶ月後位だった。父親が亡くなってから、しばらくは父親の祖父母も優しかったのだが、しばらくして態度が急変した。原因は父親が「自分が亡くなった後、後遺症で母親が働けないから、しばらく普通の暮らしが出来るように」と遺した死亡保険金だった。祖父母からすれば、自分達よりも先に息子が死んだのがショックだったのだろうが、その後父親の遺した死亡保険金が、とんでもなく高額だったという事を知り、目の前の大金に目が眩んだのか、相続人の欄に祖父母と父親の弟の名前も書けと言い出した。父親の意向を祖父母に話すと祖父母は逆上し、自分と母親に冷たく当たるようになり、母親の後遺症がある事を侮辱し始めた。自分には家にも学校にも居場所が無くなった。

その後小学2年生にあがり、母親も祖父母に侮辱されたのが悔しかったのか、杖無しでおぼつかないながらも歩ける様になっていた。しかし、家での肩身の狭さはより酷くなるだけだった。学校でのいじめも日に日に酷くなっていた。前は暴力暴言止まりだったのが、金銭の強要にまでエスカレートしていた。しかも、同学年奴らだけでなく、そいつらの兄もいじめに参加する様になっていた。喧嘩も弱く、元々気の弱かった自分は家での環境もあり余計な心配をかけれず、そいつらに従うしか無かった。強要金額は最初は1000円と小学生らしい金額だったのが、5000円、10000円とどんどんエスカレートしていき、遂に耐え切れなくなったら自分は母親に相談した。当然、それに応じてしまった自分はこっぴどく叱られた。学校にも連絡がいき、先生を交えて話し合いになった。しかし、いじめの当事者達は「そんな事は知らない」とシラを切り始め、とうとう先生達も諦めてしまった。それに不満を持った母親が話し合いに参加していた担任に怒鳴り込みに行った。しかし、担任の言い分では「子供達も知らないと言っていますし、証拠も無いですからどうする事も出来ません‪w‪wそれに仮にそれが本当だったとしても、それに応じてしまった息子さんが悪いのではないんですか?」ということらしい。要は、面倒事は明るみに出さずに無かった事にしたいらしい。自分は人間の子供がクズだということは理解していたが、この時初めて人間は大人子供関係なくクズしか居ないのだ理解したのと同時に、自分に味方は一切居ないことを理解した。その後母親が教育委員会に抗議し、その担任は別の学校に飛ばされた。けれどもいじめは金銭の強要は無くなったが、その分暴言暴力は酷くなった。自分の元の人格はこの頃崩れて荒んだのだと思う。

小学3年生になり、クラス替えが行われた。幸い、いじめの主犯格達とは別のクラスになったが、新しいクラスになりまた別の奴らに目を付けられた。その頃から自分は相手に暴言を吐かれると言い返す様になっていたが、喧嘩が弱い事には変わりが無いため、全部ボコされて終わりだった。家での環境によるストレスと、学校でのいじめによるストレスで、自分は爪を噛む癖が着いていた。それを見たクラスメイト全体は「汚い」だの「気持ち悪い」だの好き放題言っていた。これに関しては完璧に自分が悪いのだが、癖になっていたため意識的に治すことが出来なかった。自分はこの事がきっかけで遂にクラス全体から異物として扱われる事になった。その頃、クラスのいじめの主犯格の中に、M君という奴がいた。ある日、体育の授業で校庭で準備体操を終え、先生の指示を待っている時M君はいきなり自分に「なぁ、お前のお父さん死んだの?」と楽しげに聞いてきた。自分が何も言い返さずに首を縦に振ると、M君は笑いながら「お父さん死んでよかったね‪w‪w」と言い放った。まさか自分の父親の死をネタにされるとは思っていなかった自分は少しの間硬直した後、泣き叫びながらM君に殴りかかろうとしたが、M君に喧嘩で勝てる訳もなく、自分が殴り飛ばされてしまった。すぐに先生が止めに入り、事情を聞こうとしたが、M君は「いきなりアイツが殴りかかってきた」と嘘をついた。それを鵜呑みにした先生から自分だけ説教をくらい、母親に連絡され、ありもしない事で家族も共々頭を下げに行った。自分は今までいくら殴られようが、暴言吐かれようが、言われ慣れ過ぎて日常の1部となっていたため、特に何とも思わなかったのだが、この時は自分の無力さを呪った。いっそ遺書に今までの事を洗いざらい書いて自殺してやろうかとも思ったが、自分にそんな勇気は無かった。今になって思うと、それが出来るだけの勇気があったのなら、そもそもクラスで孤立してないだろう。また、人間に対する嫌悪感が膨れ上がっていった。
その頃になると、家での祖父母の嫌がらせもエスカレートしていき、母親は強迫性障害とうつ病を併発してしまった。母親いわく「このままだと息子が将来、祖父母やクラスメートを殺してしまう」と思ったらしく、母親は家を買い、祖父母の家から離れる事にした。こんなゴミの様な環境を作り出し、ここまで人間の醜さを見せつけて育てた時点でまともに育つわけ無いのに。
家庭訪問の時期になり、新しく買った家に担任が家庭訪問に来た。(担任は3年生なる時にクラス替えと同時に変わっており、今回家庭訪問に来た担任は60歳を超えた気の強いおばあちゃん先生)自分はその先生が嫌いだった。何故なら考え方が極端です古かったからだ。自分の思想や考え方を他人押し付けてしまう癖があり、当時反抗期真っ只中だった自分にとってはこの上なく邪魔に思えた。正直来て欲しくなかったが、学校の行事のため反抗しようがなかった。家庭訪問の時先生は、学校での自分の事、家での自分の事、いじめの状況説明等を終えた後、少し考えた様な素振りを見せ、母親にこう言った「もしかすると、息子さんは発達障害を持っているかもしれない。病院で検査することをオススメする。」と自分は何を言われたのか分からないまま、病院で検査を受けた。結果自分はADHDだと診断された。しかもADHDは主に特徴で分けると大きく2つに分けられるのだが、自分は2つとも持っている事が分かった。特に、自分の場合は人の気持ちを考える事、自分の感情をコントロールする事が出来ないらしく。それが原因で周りに馴染めずに孤立して居たらしい。それに加え、今まで育ってきた環境を考えるといじめの経験や、家庭環境のせいもあって、通常のカウンセリング等の医療行為の効き目が弱いらしい。それから、自分は学校に備えてある特別支援学級に行く事になった。ちなみに、この頃は極度の人間不信のせいで周りから見ると、完全に頭のおかしい奴に見えていただろう。今思うとあのおばあちゃん先生には感謝した方が良いのかもしれない。




今回はここまでです。
次回は小学4年生からスタートしたいと思っています。
面白くもなんともない文章ですが、自己満足で書いているため、そこの所はご了承ください。
今回も、次回からも長文になりますが、ここまで見てくれた皆様ありがとうございます。