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第1話

北原白秋
68
2021/12/18 19:12
しみじみと物のあはれを知るほどの少女となりし君とわかれぬ

北原白秋





「おにーちゃーん!」

「うおっ!どうした、春!」

「おにーちゃんにあいたくてはしってきたのー!」

「そうかそうか!一緒に遊ぼうな!」

「うん!あそぶー!」



俺は、総二郎。

名前の通り、次男坊だ。

跡取りの兄は婚礼が近付いてきて、次男の俺は厄介者だ。

時折、町に出て散歩するのだが、なにをするというわけでもなく、ただふらふらとしている。

その時に出会ったのが、春だ。

まだ5歳の女の子で、このあたりでは裕福な家の長女だ。

まだ遊び盛りの子供で、こうやってよく二人で遊んでいる。


「おにーちゃーん!あっちいくー!」

「おう!あんまり走るなよ!」


きゃははと楽しそうに笑う春は、もう俺の妹のようだ。

そんな春と遊ぶのも、十六になった俺にとっても楽しい。


「きゃあ!」

「あっ!春!」


バシャン!!




「ただいまぁー!」

「おかえりなさい春。…まあまあ、勇ましい姿ですね」

「すみません…一緒に転んでしまって…」

春が転んだ時、昨日の夜降った雨の水たまりに二人で はまってしまったのだ。

「いいのよ。服は、洗濯すれば落ちるでしょう?」

「…はい」

「それより、いつもありがとうね。春も楽しそうだから、何よりだわ」

「いえ!俺も楽しいですから笑」

「それは良かったわ。 春、総二郎さんにお礼は?」

「おにいちゃん、ありがとう!」

「おう!また、遊ぼうな!」

「……」

「どうした?」

春が、黙って俯いたので、問うと。

「おにいちゃんがかえるのやだー」

そう言って、頰を膨らませる。

なんともかわいらしい姿だ。


「なら、今夜の夕食まで一緒にどうかしら?」

「え!いや、そんな…」

「やったー!おにいちゃん、いっしょにおふろはいろー!」

「え!!春、ちょっとまって!」

「ふふふっ どうぞ、入っていってちょうだいね」

「すみません…」

「おーふーろー!」


春は飛び跳ねながら、俺を引っ張る。

「春、家では飛び跳ねちゃだめだって!」

「ギクッ…はーい」

「あら、総二郎さんの言うことはちゃんと聞くのね笑」

春は飛び跳ねるのをやめたが、小走りで風呂場に連れて行ってくれた。

「おにいちゃんのふく、おかーさまに「ちょうだい!」してきたの!」

「あ、ありがとう、春」

「えへへっ」


風呂に入ると、春は俺の背中を洗ってくれた。

「おにいちゃんのせなか、おっきいねー」

「そうか?春のお父さんの方が大きいだろ?」

「おにいちゃんのほうがすきー!」

「ははっ そうか笑」


春の背中も洗って、と言うので、俺は手拭いを使って、優しく洗った。

「春の背中は、ちっさいなぁ笑」

「はるだってすぐおおきくなるもん!」

「まだこんなにちっちゃいのに、本当かー?笑」

そう言って春を抱えて、優しく湯船に投げる。

「ひゃーっ!笑」

バシャンと湯がなるたび、春は楽しそうにする。

それを見ると、俺も楽しくなるんだ。



そのあと、俺は春の家で夕食を頂いた。

一日中 一緒にいたからか、春はとても楽しそうに笑っていた。

「総二郎君。確か、君は読み書きができたな?」

春のお父さんが、俺に問う。

「…はい!幼い頃から、本を読むのが好きだったので」

「ほう。人は見かけによらんなぁ笑」

「え?…あ」

俺の見かけは、髪は襟足が長く、服は着崩しているため、不良のようで、町の人には評判が良くなかった。

しかし、そんな俺を助けてくれたのがこの人だ。

春と遊んだり、時折ここの商売を手伝ったりしているうちに、俺の評判はだんだんと良い方になった。

それは、この人が俺を積極的に店の表に出して、働く姿を町の人々に見せるようにしてくれたからだ。

だから今では、町でも挨拶をしてくれる人が増えた。

本当に感謝している。

「ところで、総二郎君。君に春の読み書きを教えてやって欲しいのだ。」

「…俺に、ですか?」

「ああ!君だから、頼みたい」


「是非、やらせて下さい!」

「ああ、よろしく頼むよ」

「ほんとうに?!やったぁ!」

「良かったなぁ春」


これは、この人に対しても恩返しになる。

そして、春と一緒にいる機会も増える。

俺は、快く受け入れた。


この時、どちらかと言えば、春と一緒にいることより、春のお父さんに恩返しすることの方が、俺の頭の中を埋めていた。







「これはこう書くんだ」

「むう…むずかしい…」

「もう少しだ。頑張ろうな?」

「うん、がんばる!」



春の習得はとても速かった。

仮名文字などは五日で覚えたし、今では簡単な漢字も読める。

もうすぐ書物も読めるだろう。


春はどんなに難しくても、嫌だとか、辞めるとか、駄々をこねることは決してなかった。


「おにいちゃん。これわからない」

「これは、恋って読むんだ」

「こいってなに?」

「恋は、だれかを好きになって、一緒にいたいって思う気持ちだ」

「へー じゃあお父さまやお母さまといっしょにいたいっておもうのは、こいだね」

「それは、違うかもしれない。」

「え!なんでー?」

「恋っていうのは、家族に持つものじゃなくて、家族じゃないけど、春にとって大切な人に持つものだよ」

「んーむずかしいね」

「そうだな笑」

うーんと唸っている春を、愛らしいと思って、その髪をくしゃりと撫でる。

「そんなに考えなくてもいい。」

「そうなの?」

「ああ。いつか、春にも恋が分かるようになる。だから、急がなくてもいい」

「…わかった!」

ニカッと笑う春が、輝いていた。









時は過ぎて、俺は二十歳になった。

あれから、毎日勉強に付き合った。

俺には仕事もあるし、春も店の手伝いをするようになって、少しの時間しか出来ない時もあったが、それでも俺たちは勉強し続けた。

読み書きだけでなく、店の会計などもできるように、数学も取り入れた。


春はとうになった。

みんなの前でも礼儀のいい、もう立派な女の子だ。


ただ、俺たちが二人になると、春はいつまでも変わらず子供のままだった。


無邪気にはしゃぎ回るし、駆けっこは俺にも負けを取らない。
時には、泥だらけになりながら遊ぶ時もある。



そんなある日。


「お兄ちゃん」

「どうした?」

「ずっと前に、恋について教えてくれたじゃない?」

「ああ。あの時の春は頭を抱えていたなぁ」

「その答え、見つけた気がする」

「そうなのか?!」

俺は焦った。

答えを出すことができたのは、嬉しい。

でも、その答えを俺が聞いていいのか?

俺は聞きたいと願っているのか?



「春、その答えは言わなくてい…」

「私の恋は、お兄ちゃん」

「…は?」

「私の初めての恋は、お兄ちゃんです」

「…おれ?」

「うん。家族じゃないけど、大切な人はお兄ちゃんしかいないから。」

「そうか…ありがとう」

「うん!」



その時、俺は初めて春に恋をした。




春の家業は、反物も扱うし、陶芸も扱う、いわゆるなんでも屋だ。

そのため、利益は多く、店舗は全国へと展開している。

最近では、建築も取り入れたので、俺にも出張の申請があった。

その間は、この町を離れることになる。


「なんでお兄ちゃんが行かなきゃだめなのぉ」

「ごめんな…」

「いやだぁ。行かないでよぉ」

案の定、春は泣いてしまった。
しかし、それは俺の前だけでだった。

長女として、親の前では決して涙をこぼさなかった。


「すぐに帰ってくるから。いい子で待っててくれ、な?」

「ほんとに…?」

「…ああ。」


ごめん。ごめんな。

この旅は、最低でも一年はかかる大旅だ。
もしかしたら、一年なんかじゃ帰ってこられないかも知れない。


「わかった。待ってる」

「おう。いい子だ」

「いってらっしゃい!」

そう言って笑う春の涙を拭ってやった。




最後に見た春の笑顔が、俺の心の支えだった。
















「この町も久しぶりだなぁ」

「そうですね」

「あれから、どれくらい経った」

「…三年、になります」

「そんなに経ったのか。春ちゃんも、寂しかっただろうに」

「…」





「ただいま戻りました」

「あらあら、総二郎さん!おかえりなさい」

「お母さん、お久しぶりです」

「随分、男らしい顔付きになったわねぇ」

「褒め言葉として受け取っておきます笑」

「そんなことより、早く入りなさい。…あの子のところへ行ってあげて」

「…はい」




俺は、小走りで春の部屋に向かった。

「春っ!」

俺が声を上げたのと、襖を開けたのはほぼ同じ同時だった。

部屋の奥、縁側に座っている春と目が合う。


「…お兄ちゃん?」

「春…っ」



「お兄ちゃん!!」

俺たちはお互いに駆け寄っていた。


抱きしめたその春は、三年前より背丈が大きくなっていた。


「おそいよぉ…お兄ちゃんのばか…」

「ごめん……会いたかった」





その日からまた勉強をし始めた。

お互いの時間を埋めるように、何時間も書物の中に二人でいた。



「総二郎さん。お話があるの。今すぐ来てくださる?」

「あ、はい!春、いってくる」

「いってらっしゃい!」

春の返事を聞いて、書物の中からでる。

ふと振り返った時、春が庭先の花を見ていた。


その顔は、俺が見たことのない、儚い雰囲気を醸し出していて、俺の心臓が跳ねた。



「お話って、なんでしょうか?」

俺が問うと、春のお父さんが口を開いた。

「あの仕事が終わって君がこの町に帰ってきたら、言おうと思っていた。」

「?はい」

「春と結婚してくれないか?」

「……え?」

「あなたのことをずっと見てきて、春にはあなたしかいないと思ったの。」

「俺なんかで、いいんですか?」

「君だからだ。どうだろう。了承してくれるか?」


「…この話、春は知っているのですか?」

「君から了承を得たら、伝えようと思っている。だからまだ春は知らない。」

「…」

「どうしたの?」

「…この話、俺に少し時間をください」

「え…」

「あ…お、親と相談もしないといけないので、時間が欲しいです」

「あぁなるほど…わかった。待つよ」

「ありがとうございます」



俺は、心は複雑だった。

春は、もう結婚する歳になってしまったのだから。

彼女は、もう子供ではないのだ。




この頃、春の様子がおかしい。

春が好きそうな書物を読んでいても、時折庭の白百合を見つめているのだ。

それも、儚そうに。


「春。この文の意味は分かるか?」

「…花に、恋しい人を重ねているね。この詩、素敵だね」

そう言って、春はもう一度白百合を見つめた。




俺はこの時確信した。

春は誰かに恋をしている。


それは、明らかに俺ではなくて。


なぜかその事実が、俺の心の中に すとん、と落ちて言った。




「この前の話の件ですが」

「ああ、親御さんからの了承は得られたか?」


「…お断りさせて頂きます」


「…?!どうして…」

「…彼女は、俺の『妹』です。だから、俺は、春の幸せを願いたい」

「…それは、あなたの選択なの?」

「…はい。親にはこの話さえ伝えていません。俺一人で、考えました」

「総二郎さん。あなたは先程、『春の幸せを願いたい』と言いましたね」

「はい」

「あの子は、あなたを想っていない。…そう、感じたのですか?」

「…俺は、読み書きや書物は得意です。感情も、人より敏感だと思います。
だけど、俺にはどうも、『恋』は向いていないようで笑
『恋』という感情だけが、理解できていなかった…だから、彼女に想う人がいることに、たった今気づきました」

「そうだったのか…」

「…俺は今まで通り、春のお兄ちゃんです。それだけは譲りません」

「わかった。…春のことをもっと大切にしてやるべきだったなぁ。『子』に言われて気づくなど…」






その次の朝


春は、お父さんに言われて、想い人を連れてきた。

俺は立ち会わなかった。


もし立ち会っていたら、俺は、決断したとはいえ、後悔してしまいそうだったから。

ただ、ひたすらに書物を読んだ。

日が暮れるまで…紙にシミが出来るまで、読み続けた。






「あんなに幼くて元気いっぱいだった君も、悲しみや、愛おしさが分かるほどの少女になってしまったな。


俺は君の心から離れるよ。

君が俺から離れていったように。

俺を選ばなかったように。


だけど、俺は君の幸せを願う。


なぜなら、俺は君の、
たった一人の『お兄ちゃん』だから。」
















私は、お兄ちゃんが好きだった。

お兄ちゃんとして、じゃなくて、
男の人として、好きだった。


だけど、三年は長かったの。


寂しくって、悲しくって、『もうすぐ帰ってくる』そう思って待っていた。

そんな時、出会った彼に、私は惹かれていった。

お兄ちゃんが帰ってきた時は、嬉しかった。

とても嬉しくて、涙がこぼれた。

三年前より、大人の顔になって帰ってきたお兄ちゃんに、胸が高鳴った。

でも、私は、
お兄ちゃんじゃなくて、彼を選んだ。



『お兄ちゃんは、私のお兄ちゃんのままいて欲しい』

自分勝手な言い分だけど、私にとってそれは彼より大切なこと。


お兄ちゃんは、一生、私のお兄ちゃんでいてください。



私の、初恋の人でいてください。




今日、異国に旅立つ、私が子供の頃から変わらない大きな背中に、

精一杯の笑顔を、送ります。


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