第4話
勉強の定義
「さて、今日やる事なんだがね」
僕はそれを聞きながら教科書を広げる。然しその動作を彼の手が止め、本は閉じられた。
「え…先生?」
「今日は勉強はしない。少しお互いの事を分かり合うためにも話をしないか?」
「でも、……怒られるよ」
「それは父親にか?」
「うん…」
伏せた目、父さんの怒鳴る顔、失望する顔、呆れた顔…僕の中にある父さんの顔はいつも暗い顔ばかりだ。全部僕が悪いから…。僕が勉強出来ない子供だから……。
「なあ真宙。勉強は何の為にすると思う?」
「えっ。それは…勉強して頭良くして将来困らないようにするため、でしょ?」
「そうだな、それもひとつの答えになる。だけど本来勉強ってものは頭を良くする為にする事じゃない。自分が幸せになる為にするのが、勉強というものだ」
「自分が……幸せに?」
「そうだ。無知で居るということは自分の身に何か起こった時それを回避する能力がない、故に痛い目を見たり不幸になったりする。だが知識が高いとそれは自分の身を守る事にも繋がるわけだ。ただし自意識過剰という厄介なものに取り憑かれると、それはそれで不幸になる」
「そっか…そうなんだ。自分が幸せになるために」
その答えは衝撃とも言えた。
恥をかかないために勉強しろと言われていた僕にとって、" 自分が幸せになる為にするのが、勉強 " という答えは新鮮だった。
「それじゃ、僕も頑張って勉強すれば幸せになれるかな?今よりも…」
「あぁなれるさ。だけど普通の勉強なんかしてもお前はきっと退屈だろうし分からない。それが悪いと言うことではないんだ。俺が思うに、お前は簡単な問題ほど難しく考えすぎている。だから答えが出ないし間違える。試しに持ってきた問題を解いてみろ、これは勉強ではなく遊びだと思っていい」
そう言われて出された一枚の紙、そこに書かれてある問題…。一目見てすぐに分かった。
「これって…」
「あぁそうだ。これはアインシュタインが考えたと言われる数学の問題だ」
僕に解けるのか?
そう思うよりも先に芽生えたのは…。
「面白そう。僕解いてみるよ」
「ああ。時間はいくらかかっても構わない。こんつめずに楽しく解いてみる事だ」
「うん!」
僕は問題を読みながら頭の中で整理をしていく。その時間が楽しかった。
答えに近付く確かな手応え、解き明かされていく問題、僕は夢中だった。全ての問題を読み終えて答えを導き出す頃には達成感と満足感と幸福感で満ち溢れていた。
「お、解けたか」
「うん!答えはドイツだね」
「ああ、正解。どうしてそう思った?」
僕は一から導き出した答えにたどり着くまでの過程を話した。それはとても楽しくて楽しくて仕方がなかった。数字ばかりの問題なんかよりずっと楽しい。
「ほぅ、凄いじゃないか。ほぼというか完璧な答えだな」
「へへ、やった」
「…すごくいい顔をしている、楽しかったか?」
彼の手が僕の頬を優しく撫でてくれる。僕は満面の笑みで大きく頷いた。
「そうかそうか、よしよし。それならご褒美に思う存分甘える事を許してやる」
「あま、える?」
「ああ。ほらおいで」
彼が膝の上を叩くから僕はその上におずおずと乗ってみる。大きな体、僕の腕じゃ回しきれない。でも何だか凄く落ち着くし安心する。彼が僕を包み込んだ時、ほわほわと暖かくて僕は彼に擦り寄っていた。
「お前はまだ子供だ。親から受ける圧に苦しめられていい年齢じゃない。俺はお前が幸せになれるなら努力する。お前の幸せを俺が見つけてやろう。だから…無理はするな、真宙」
「先生……。ん…ありがとう」
「どういたしまして」
僕の中で龍也先生に持っていた恐怖は消えた。それどころか、彼なら僕の全てを分かってくれるんじゃないかと思った。
「龍也先生、大好き」
「え。はは、そうか。もう俺のことを好きになってくれたのか、ありがとう」
「いいえ!」
僕は今までの先生よりも、父さん達よりも、龍也先生と学ぶ時間が何よりも楽しいと思えた。先生なら僕の事を分かってくれる…。そう信じて疑わなかった。
「さあ、休憩は終わりだ。次も面白い問題を解いてみようか」
「うん!」
3時間の勉強という時間が、こんなにも早く短く感じるのは初めてだった。
僕はこの日初めて
【時間】を恨んだ。時なんて止まってしまえばいいのにと。僕と先生以外の時が止まって欲しいと、そう願っていた。