第5話
幽霊はつよくない
僕の本音は良心に逆らえなかった。
要するに彼女に同情した。
もちろん、怖くないわけがない。だけど、彼女が抱える恐怖に比べたら、なんでもないように思えたのだ。
そして、待ち合わせ時間に彼女がこないのは、いつもの事だ。
時間にルーズというより、全体的に大雑把なんだと思う。もしかしたら今まで僕が公園に行く約束をすっぽかした仕返しなのかもしれない。
今のところの最速記録は十分遅れくらいだろうか。
「ごめん、コンビニをはしごしてたら遅くなっちゃった!」
ほらね。
僕は心でほくそえむ。
息を弾ませなら、ビニール袋をかかげた。
「待った?」
「うん、待った。」
僕は素直にそう答える。
「そこは嘘でも『全然待ってない』って言ってよ!」
「··········ゼンゼンマッテナイヨ」
なぜ待たせた方が指図するんだろう。
彼女は僕の脳裏に浮かんだ不満なんか気づかず、満足げにうなずく。
「はしごって言ってたけど、何買ったの?」
女子のことだから、どうせ限定スイーツとかそのへんだろうな、と思う。流行に乗りたがるめんどうな生き物だ。
「日焼け止めー!」
「日焼け止め?君にはそんなもの必要ないんじゃないの?」
今の季節が冬だから、というわけではない。
マフラーにうずめている肌も、コートに隠されている皮膚も、彼女は既に十分すぎるほど白い。
日焼け止めなんか絶対にいらないはずだった。夏が来たって、使わない。
「だって、不自然に思われちゃうじゃん。でも、日焼け止めをひんぱんに塗っている所を、見たらみんな『あーそういう事か』って納得するでしょ?」
『不自然』と彼女は表現した。
だがそれは随分オブラートに包んだ言い方だ。
彼女は異常なほど、肌が白い。白人だと名乗っても、肌の色だけ見たら納得できるほどに。
「確かにそれはいいアイデアだ。」
どうして肌が白いのかと聞かれたら、全部日焼け止めのせいに出来るから。
「冬だから取扱っていないところ多くて困っちゃうよ・・・あ、今日ね!向かいのおうちでゴールデンレトリバーの赤ちゃんが生まれたんだ。」
白い息を吐いて、マフラーに首をすくめた彼女。
「ふーん。」
「あ、あと、駅の東口のパン屋閉店するんだってー。割引券もらったんだけどいる?」
「いらない。」
「そうだ、昨日友達に聞いたんだけ·····」
「とっとと本題に入ったら?」
彼女の言葉をさえぎった。
そうでもしないと永遠と立ち話に付き合わされるだろう。靴を履いていても、やはり地面の冷たさはジリジリとむしばむものである。夜明け前は一番冷え込むから。特に。
「私、明日も生きてる?」
ちょっと遠慮しているのか、語尾が弱かった。吐息と一緒に空気中に溶けている。
「ああ。」
眠れない僕たちは、あの日からこうやってこそこそと密会を重ねてきた。
「なんでいつも、世間話から始めるわけ?」
しかも、毎日。どこからそんなネタを拾ってくるんだろう。
「だって、要件だけ聞くなんて失礼でしょ。」
「君にそんなことを考えられる脳みそがあったんだね。知らなかった。」
いつも寒い中僕を待たせるくせに。
「手紙だってさ、『秋の深まりを感じる今日この頃~』って始めるじゃん!」
「なるほど。君の無駄話はすべて気候の挨拶文ってわけか。」
導入部分が長すぎて、本文を読む前に放り投げ出されそうな手紙だなぁ、と思わず笑う。
「一目見た時から、君に話そうって決めていたの。私のことについて。」
「どうする?僕に『明日をみる力』が無くなったら。」
「んー、それでも君とこんなふうに会たいな。」
「それは僕が、君の秘密を知っているから?」
「それもあるけど、それだけじゃない。」
彼女の秘密は、家族と、医者と、僕しか知らないらしい。
「具体的には?」
「君が私を化け物扱いしなければ、変に心配したりしないから。あとは私を一人のまともな人間として見てくれるから、だよ。」
まるでフランス人形のように長いまつ毛を、得意げに震わせている。肌が真っ白いので、本物の人形であるようにも見える。人間が持たないような幻想的な美しさ。何度うっとりしたことだろう。
「ごめん、僕は君の思うような人ではない。時々、僕とは違う生き物のように思ってしまうんだ。」
言ってしまって、鼓動が加速した。
『生き物』は嘘だ。人形に命はない。できるだけ忠実に、だけどあまり彼女を傷つけない言葉を選んだ結果のことだった。
「大丈夫。私も同じようなこと考えている。君はなんだか死神みたいだなって。」
その言葉はあまりにも冷酷で、彼女はとても冷静で、僕はただ、静かに視線を送った。
勢い余って口から飛び出す。
「死神に生かされる人間か。君はなんて愚かなんだろう。」
僕に魔法みたいな力があるわけないじゃない。だけど、彼女の幸せを願ってのことだった。あの日から、僕が眠る理由の全てが。
『死神』の一言で僕が否定された気がした。
「待って待って、違うの。君を怒らせるために言ってるんじゃないよ。ただ、伝えたかった。私の言葉ひとつひとつに傷つく、そんな君だから、私は信頼してるんだってこと。仮に君が私を裏切ってもそれを許せる相手なの。」
そんな人が隣にいるだけで、心強いんだよ。そう言うと、モノクロの空を仰いだ。
その様子がとても切なかった。怒りなんてものはすぐに消えた。
君が、はじめて涙を流したからだ。
「本当は怖い。すっごく怖いに決まってんじゃん。死んで、ここから私が、いなくなっちゃうのが、そんな日が遠くないって、わかってるから。」
僕はどうすればいいのかわからなかった。
どんな慰めの言葉も、今の彼女を前にしたら何の価値も持たない。
ただ、苦しげに放たれる悲痛な叫びが、漠然とのしかかった。
無力な僕は言う。
「君は死ぬために生きているんじゃない。」
人間は誰しも、死が待っている。人間に限らず、すべての生きものに。
そんなことは、みんなわかりきっている。
そんな言葉しか言えない僕は情けなくて、悔しい。だけど、これを彼女に伝えたいのだ。
「お願いだから、憂えないで欲しいんだ。」
生きた先を恐れて、投げやりにならないで欲しい。
「明日はある。君のために来る。僕は知っている 。」
彼女はとうとう、膝から崩れ落ちた。
抑えていた声と、涙が嗚咽とともに溢れ出す。
さすり続けた彼女の背中はやはり冷たい。
それでも僕の手の甲にかかった涙は温かかった。灯火はきちんとここに、あった。
僕が知ってる明日の君は、きちんと笑っていたよ。僕もその隣でばかだなぁと、笑っていた。
夜をきちんと乗り越えていた。
「ありが、とう・・・。」
彼女は二度泣いた。
夢で一回。
現実で一回。
夢の中で激しく泣きじゃくる彼女を見て、胸が張り裂けそうだった。
『死にたくないの。死ぬのが怖いの。眠ったらもう起きられないかもしれないなんて、いや。』
根を詰めた声は、夢で何度も見た。聞いた。
せめて、現実では笑っていて欲しい。
今まで幾度もなく、夢とは違う方向へ彼女を促してきた。バッドエンドが限りなくハッピーエンドに近づくように。
それでも、彼女が泣いてしまった。
心の中で思っていた。彼女は弱いんだ。
いつも明るく振る舞うのは、それは、自分で恐怖を押しのけるため。その瞬間だけは、病気を前向きに捉えられるから。
彼女の笑みは、どこか乾いていて、身体同様に冷たかった。頬の青白いくぼみはいつだって途絶えることは無かった。
かぶり続けた仮面のしたで、いつも涙を流していたのだろう。澄ました笑顔は本心から来るものではなかった。
どれほど辛かったのだろう。無理をしてきたのだろう。
堪えきれなくなった、あの日。
僕は改めて思い知った。