イザークは、もしかすると、先程のニーナとテオドールの会話を聞いていたのかもしれない。
ニーナはすぐにそう思ったが、イザークに聞きたくても、ショックのあまり言葉が出てこなかった。
「出て行く」というイザークの言葉を、脳内で反芻する。
イザークはニーナの顔を見て微笑み、やや寂しそうに表情を曇らせた。
その質問で、ニーナは確信した――やはり、イザークはふたりの会話を聞いていたのだ。
風呂に入っているからと、油断していた。
すぐには返事できないニーナにイザークはそう呟き、しばし悩む仕草を見せた。
イザークが一体何を考えているのか、ニーナには分からない。
イザークはそう言って、一階への階段を降りていった。
静寂が辺りを包み、イザークがこれから何をするのか想像もつかないまま、ニーナもベッドへと潜り込む。
しかし、イザークが初めて家にやってきた日と同じように、なかなか眠くならなかった。
***
あれから深夜になってようやく眠れたものの、翌朝ニーナが起きてきた時には、イザークの姿はもうなかった。
別れの挨拶がまだできていないのに、イザークはさっさといなくなってしまった。
テオドールの言ったとおり、感謝の言葉が綴られた書き置きが、テーブルの上に残されている。
【ニーナ、これまで本当にありがとう。勝手で申し訳ないけれど、先に家を出ることにした。また、必ず会いに来るよ】
テオドールは彼の物音で起きて最後の挨拶ができたらしい。
ニーナはそれができず、寂しく思うと同時に、胸が痛む。
何か大切なものを失ったような、そんな感覚がする。
***
喪失感を抱えたままのニーナは、呆然とその日を過ごした。
テオドールですら、「寂しいな……」と口にするくらいだったのだ。
そして翌日。
ニーナが家の中を掃除していると、仕事中のはずのヴォルフガングが、慌てた様子で扉を叩いた。
何事かとニーナが驚き、急いで扉を開けると、ヴォルフガングは息を荒らげていた。
国からの知らせを周知させるために、こうしたビラは下町にも時折配られるので、珍しいことではない。
彼が焦っているのはその内容だと分かって、ニーナは紙面をじっと見た。
そこには、第二皇子・アレクシスの似顔絵と情報提供依頼の旨が載っていた。
アレクシスは随分前から行方不明になり、皇宮側が秘密裏に捜索してきたらしい。
しかし一向に見つからず、皇子の身を案じ、切羽詰まった皇宮側が急遽、国中に公表を決めたということだった。
それだけなら、ヴォルフガングもニーナも、驚きはしなかっただろう。
精巧に再現された似顔絵は、間違いなくイザークのものだ。
ニーナは絶句した。
記憶を失っていた男は、このヴァールハイト帝国の第二皇子・アレクシスだったのだ。
【第15話につづく】
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!