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第1話

青春が動き出す
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2019/12/17 22:58
それは、ある春の日のことだった。




穏やかな静寂を、1つの澄んだ音が通った。
僕は、思わず振り返る。
何気ない、普通の校舎の景色が、変わっていく。
その、だけで。





鳥が、空の彼方へと飛び立つ。
曇りがかった空を押しのけ、青空に変わっていく。
そこは、見たことのないような、美しい、世界。
景色が。広がっていく。


生き物全ての、春を喜ぶ歌が、聞こえる。



甘酸っぱいような、苦いような、不思議な匂いで、空気が満たされていく。
祈りのように神聖に、誇るように声高だかに。
歌う。響く。
この音は。『青い春』を謳っている。





何だろう、これは。
心の奥の、思い出の詰まった場所を優しく開けて、美しい景色を見させる、この音は。
この音は、何だーー?




硬質なのに、清らかなこの音。
数秒して、それがピアノの音だと気付いた。
これが、あのピアノの音?
僕の知るピアノの音とは、全く違っていた。
この音はーーそう、別の生き物の歌声のようだ。
これが…ピアノ?
音楽室の方からだろうか。この近くだから…あそこだろうか。僕の視線の先にある、窓の開いているのに照明を落としているからか暗い部屋を見つめる。



近くの桜の木から、花びらがふわりと数枚、澄みきった空へと舞い上がる。
その、淡い淡い、白に近いピンクの色。
それさえも、塗り替えて。





世界が、青に染まっていくーー





…と、不意に音が止まった。
もう少しだけ聞いていたかったのに、と思いつつ、脚を動かそうとした、その時だった。




多分、この時。
僕の青春は、動き出した。





音寧結月
音寧結月
みつけた


それは、小さな小さな声だった。
柔らかい、しかし芯のある澄んだ声。
その声の持ち主は、僕の視線の先にあった、その部屋の窓から顔を覗かせた、美しい少女の声だった。
期待と決意との眩しい感情を顔に滲ませて放たれた言葉。これは、僕のこと、だろうか。
みつけた、…って、何だろう?
と、僕が思っている隙に、少女は窓枠に足を掛けて窓から出てきた。
え、え、え。
驚いている僕を見つめて立つ少女。



その真摯な視線の先に、僕がいる。
僕は、そんな視線には、慣れていない。
けれど、目を逸らせない。




少女は、口を開いた。
決然と、真っ直ぐに僕を見つめながら。



音寧結月
音寧結月
転校生。私と、ピアノやらない?




僕の、混迷で珍妙でけれど愛おしい青春とやらは。全ては、君の音から、はじまった。




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