いつだって、結月は私のヒーローだった。
昔も今も、ずっと。
…もう1度、舞台に戻ってくることを信じて。
不意に、背中にどんと衝撃がくる。
振り返ると、私に後ろから抱きついてくる後輩が。
よしよしと頭を撫でて、妹のように可愛がっている、肩までの、変わったピンク色の髪をツーサイドアップにした少女に優しく言う。
私立桜木坂学園ピアノ科の木の匂い香る校舎の廊下、夕焼けで綺麗に色づいた窓辺で、中学2年生の私と、1学年下の後輩2人の影が伸びていく。
不思議と、和んだ気持ちになった。
邪気なんて何一つない、中学1年生らしい、あどけない顔で、にへらと笑う美宇。
はしゃぐ双子の姉を隣で嗜めるのは、ピンク色の肩までの髪を今度はハーフアップにした美羅。
双間という珍しい名字に似合う、よく似た顔立ち。
人形のように大きな金色の瞳は、2人の雰囲気で、輝きが変わっている。
美宇の瞳は、明るい雨上がりの晴れのような輝き。
美羅の瞳は、憂うように影を宿す月みたいな輝き。
まだ幼くも、可愛らしい2人。
ピアノの腕も、中学1年生ながら学園でも私に続く実力者で、私の弟子達。
じゃあ、私はどうだろう。
名家で生まれたからか、腰まで伸ばした黒髪と黒い瞳は母譲りで綺麗だし、両親から受け継いだ端正な顔立ちはまあ便利だ。
それに、ピアニストにとって、容姿は確かな武器。
両親には感謝している。
でも。
結局のところ、1番大事なのは、ピアノの完成度。
全部持っているのはーー
百合乃、と柔らかく笑う少女。
舞台に立った、女神のように美しい少女。
その、音。
全て、覚えている。
…今はもう、その音さえも消えて。
けれど、いつか、帰ってくるはずなのだ。
だから。
結月が帰ってくるまで。
私のヒーローが、帰ってくるまで。
私は、頂点で、貴方を待つ。
だから、帰ってきて。
私の、ヒーロー。
小さくくしゃみをする。
風邪だろうか。それとも、噂されてるとか?
鼻をすすって私は裏門へと向かう。
実は私の家は、意外と透の家に近いのだ。本人には言わないけど。気を遣わせそうだし。
…と考えて、立ち止まる。
はあと溜息をついて、部室へと歩く方向を変える。
鍵を持っているのは私だから、誰も戸締まりしていない。部室は交渉で手に入れたものだから、管理をしっかりしないと契約違反で没収になってしまうのだ。グランドピアノが2つ入る部屋なんてなかなか無いし、それは避けたい。……と。
ーー私は、顔を上げる。
今。音が。
目を見開く。
引っ張られるように足が動く。
鼓動が早まる。
早る気持ちで、足が縺れる。
見慣れた扉を開ける。
私は、息を呑んだ。
リスト。愛の夢第3番。
音の大きさは一定ではないしたまに不協和音を奏でながら、けれどそれさえも個性のように聞こえる。
覚束ない音だからこそ伝わる、感情の波。
脳裏に、景色が浮かぶ。
思い出が、鮮明に浮かび上がってくる。
……もう随分、昔のことだ。
そう言い、私と、私の妹弟子の百合乃は、固く固く小指を絡ませ握った。
スポットライトを反射して輝く舞台の上。
大きなグランドピアノの横で、私達は約束をした。
……もう、叶うことは、ないけれど。
私の唇は、自動的に、その名を紡いだ。
転校生。
ピアノを弾いていたのは。転校生だった。
私の声に気付き顔を上げた透は、焦ったように赤面して、わたわたと両手を顔の前で振る。
私は化け物か何かだと思われているんだろうか。
そんな言葉も出ず、小さな子供のように呟いた。
透はもっと激しくパタパタと手と首を振る。
居心地悪そうに、頭の後ろを掻きながら、ただ、と照れくさそうに続ける。
私は口を開けて、呆然とする。
聴いたのを、真似しただけ。
素人同然の、透が。
ピアニストには、恐ろしく耳がいい者もいる。
1度聴いたものを、完璧になぞれる者も。
おそらく、透も、同じ。
センスがあるなんてものじゃない。
これは、才能だ。
いやあんたに言われても、と喉まで言葉が出るが、既のところで我慢した。
どんな大型新人だ。沢山のピアニストと関わったけれど、こんな才能、稀だ。
百合乃と、柊と…それぐらいだ。
こんな才能が、誰にも知られていなかったなんて。
何故だろう。
久しぶりに、悔しかった。
がっくりと肩を落とす透。
私は抑えきれない高揚を胸に、笑った。
私の言葉に、透の顔が輝いていく。
やっと役に立てる、とでも言うかのように。
もう空は闇を纏って、月明かりの細やかな光と街灯の白い光が町を照らし始めていた。
戸締まりをし、職員室まで鍵を帰しに行った音寧さんを待ち、僕と音寧さんの家が近いという、衝撃の事実を本人に聞かされ、一緒に帰ることになった、その道中。
穏やかな風に吹かれながら、黒いアスファルトを歩いていく。
少し前を歩いていた音寧さんが振り返る。
僕は立ち止まる。
音寧さんの、僕を見つめるまっすぐな瞳。
これほどに綺麗なものを、僕は見たことがない。
僕は、逃げるように目を逸らす。
全てを見透かすような。どこか荘厳な気配。
僕は、空を仰ぐ。
音寧さんは、困惑したように緩く眉を寄せる。
何で、というように。ただただ不可解なように。
僕は、うーんと首を傾げる。
そう、僕も、実際のところはよく分からないのだ。
けれど、ただ1つだけ。
ただ1つだけ、確かなことは。
音寧さんは、虚をつかれたように、見つめ返す。
音寧さんは、尚も戸惑うように首をひねる。
そんなに期待されても困るんだけど…とぼやく音寧さんの頬は、言葉に反して少し赤らんでいた。
信じているから、後悔なんてしないのだ。
きっと、一生。
青春全てを捧げても構わないほど、僕はどうしようもなく音寧さんのピアノに惹かれてしまったのだ。
そんな人がすごいピアニストにならないはずない。
呆れたように言いながら、音寧さんは破顔した。
僕は何故か、してやられたような気持ちになった。
それが悔しくて、ちょっぴり意地悪を言う。
軽口を叩き合いながら、僕らは緩い勾配の、微かに花の匂いが香る坂を歩いていく。
新たな日常の中に、僕はいた。
朝っぱらから招集された僕達ピアノ部は、何故だか生徒会室の前にいた。
どこぞの指揮官かというように腕を組み悠然と佇む音寧さん。その目の前に、僕と未来と柊は横一列に整列しているから、余計に軍隊のように見える。
未来は眠そうな目をしながらも噛みつく。
欠伸に掻き消されてほとんど聞こえなかった。
せめて欠伸を噛み殺そうとはしないのか。
付き合いの長さだよ、といとも簡単なことのように言う音寧さんだが、僕は死ぬまで未来の今さっきの言葉を正確に翻訳することは出来ないと思う。
うっと嫌そうな顔をして、未来が尋ねる。
裏庭ステージ?と僕が首を傾げると未来は、1番人が集まらないステージよ、と親切に教えてくれた。
呆れ果てて白目を剥く未来。全力で共感する。
即答する音寧さん。重要なことなのは分かるけど。
さっきからあいつあいつと、誰のことなんだろう。
2人の口振りから察するに……変人のよう。
また変人が増えるのか。勘弁して。
未来は、深く深く溜息をついて、いつの間にか僕達より後ろに移動し、隠れるようにこっくりこっくり船を漕いでいた少年を振り返る。
微妙な顔をして、未来が呟く。
抗議前……いや交渉前の緊張感が台無しになったのは言うまでもなかった。
生徒会長である3年の先輩の、花楓花凛という少々ツッコミどころがある名前の、茶色に近い髪色のボブに丸眼鏡の似合う、理知的な雰囲気の少女は、僕らを前に、やれやれと溜息をついた。
尚も食い下がる音寧さん。
困ったように眉を下げて、花凛さん…いや花楓先輩は理由を丁寧に説明する。
申し訳なさそうに眉を寄せて、花楓先輩は言う。
本当にこの人何したんだよ…。
音寧さんを若干引き気味で見る僕に同意するように未来が1つ頷く。
音寧さんは花楓先輩の言葉にあっさりと答える。
音寧さんの返答を聞いた花楓先輩は、思案するように眉を寄せ、教室にあるような普通のものだが、唯一生徒会長と書かれた紙が乗っているのが違う、古そうな机に座る。
ちょいちょいと手招きをする音寧さんに従い、僕と未来と柊は集合する。
…正しくは、僕と、未来に襟を掴まれ引きずられて来た柊が集合した。
こんな状況でも寝続ける柊に、感心すると共に、何とも言えない気持ちになった。
まともな人だと思ってたんだけど…。
それはともかく、音寧さん、僕、未来の3人は頭を寄せ合いひそひそと話す。
はあ、と溜息をつき、未来は音寧さんを見る。
そしえ、でも、と続ける。
呆れたような、嬉しそうな、不思議な表情だった。
7時半に生徒会室前に集合、と朝早くに音寧さんからの電話で叩き起こされたのはピアノ部全員だ。
せめて数で、常識人の花楓先輩に対抗しようとしていたのか、と納得する。
何で僕の家の電話番号を知ってるんだよ、とかはもう言わない。
ところで、生徒会って、こんなに朝早くにも仕事をするものなんだ…。
未来の呟きに、今まで目を閉じて黙考していた花楓先輩がゆっくりと目を開き、答える。
その言葉に被せるように、大きく音をたててドアが開く。いや、今何かすごい軋んだ音してたけど!?大丈夫なのこれ!?
と考える僕を余所に、入ってきた、赤髪を2つ結びにした、気の強そうな少女が、鼻で笑った。
うえっ、と嫌そうな顔をする未来。
一刻も早くこの場を離れたい僕。
寝ている柊。
冷静な花楓先輩と音寧さん。
何か勝ち誇った顔をしている少女。
………カオスだった。
花楓先輩が、どこか冷たい目で少女を見る。
花楓先輩の冷たい声に怯んだように、後退る少女。
にっこりと花楓先輩は笑う。鳥肌が立った。
有無を言わさぬ笑顔の圧力に負け、理亜という少女は青褪めた顔で頷く。
僕は、引き気味で少女のことを指す。
言われ放題だった。
しっしっと手を振って未来が追い払おうとするも、尚更愉しそうに理亜は笑う。
短い断末魔を残して理亜が蹲る。
どうやら花楓先輩に後ろから蹴られた模様。
………と、突然。
僕と未来がすぐさま勢いよく後退り、それぞれ足を机にぶつけて転んだ。
痛みに悶える僕達を不思議そうに見ながら、いつの間にか起きていた柊が口を開く。
立ち上がって抗議するも、当人は涼しい顔のまま。
一体いつから起きていたんだ…。
あまり動揺していない音寧さんが、柊の提案を若干不服そうに肯定する。
しかしそれを聞いた理亜が涙目で喚く。
スルー技術が卓越しているピアノ部は、花楓先輩への礼もそこそこに生徒会室を出る。
まだ何か理亜が大声で喚いていたけれど、とりあえずピアノ部全員と花楓先輩は華麗に無視した。
…と、そんなこんなで、変人1人と、まともな人1人が知り合いに増えた、生徒会との交渉は終わった。
また、生徒会にお世話になることも、あるかもしれない。
………いや、当分生徒会室には行きたくないな…。
赤髪の少女を思い出し、そう思う僕であった。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。